ふりかえると(下)。
◇人間ドック、四十九日&納骨に続く三番目のイベントは、二月締め切りの論文だった。大学の研究会が出している雑誌で、もちろん書いても書かなくてもいいのだが、やはり書いておきたかった。それは、母とゆっくり最後の別れを惜しめなくて、中途半端の宙ぶらりんで混乱している自分を落ちつかせるためにも必要だと判断した。
だがやはり、いろいろ忙しい中で、当初予定していた東京への資料調査に行く時間はついに取れなかった。これはある程度覚悟していたので、論文ではなく研究ノートというかたちのエッセイに切り替えた。しかしやってみると、型にはまった論文とはまた別の難しさがあって、表現や構成に頭を悩ませ神経を使うこととなった。何よりも、論文を書くときの、これでもう資料は完全にそろって、何を聞かれても大丈夫だし、書くことならいくらでもあるし、どこからでも攻めてきなさいという安心感がないままに書いているのが、一番こたえた。
前にも書いたが、それは九条の会のチラシや、その他の市民運動、平和運動の資料を作るときの、忸怩たる気分と共通していた。このブログがコメント可能にしていた時期に、ときどきネトウヨらしき人が、まったく根も葉もない嘘の情報を(「オスプレイは落ちたことないよ!」といったたぐいの)門前のうんこみたいに書き散らして行くのは問題外としても、自分が専門でもなく徹底的な調査もしていないことを、人の資料を信じて、いわゆる「孫引き」の推測で書くのは、やむを得ないとわかっていても、ものすごく不快で疲れる。そういうことをしたくないから論文を書きたかったのだが、その欲求は完全には満たされないままだった。
それでも新たに自分なりの発見はあった。これは私しか書けないだろうということもあった。しかし結局、母の納骨の時と同じように、私の気分は中途半端で、満足と欲求不満と自己嫌悪とが入り乱れた。その、自分でも最低なのかそうでもないのかわからない、ただ疲れ切って傷ついて、疲労のために半ば盲目になったような状態のときに、また打ち合わせをしたいからと会議への呼び出しがかかった。
私は例によって、「二月いっぱいだけは休ませて下さい」という連絡はしつこく皆に言っていたのだが、まあそれが徹底していなかったのも、組織が大きく複雑になる中で、私が必要になる局面が出てくるのも、ある意味しかたのないことで誰も責められない。会議は三月初めの予定で、私が出席できる日を調整したいという事情もあった。だが、これまた、三月初めには私の方でかなり神経を使う、のっぴきならない行事が入っており、その準備のためにも、会議への参加は無理だった。それでも何とか都合をつけることにして、予定を入れたら、その直後私は目まいがして倒れた。
◇そもそも三つのイベントと書いたが、考えてみるともう一つあって(笑)、母の死の前後から私は田舎の家を人に貸すために、徹底的に片づけて空にする大事業に取り組んでいた。母の葬儀と並行して、私はとにかく田舎の家を空にしようと、こちらの家に足の踏み場もないくらい、荷物を運びこんで、本当に田舎の家をすっからかんにして、ホテルのようにきれいにした。
そして今にいたるまで、こちらの家の山のような荷物を少しずつ寄付したり、人にあげたりして減らし続けている。
腕力と気力を限りなく使う仕事なので、食生活も乱れ、ジムにトレーニングに行く体調管理もまったくできず、体重ばかりがやたらと増えた。
母の死後、どのような老後を送るにせよ、体調管理はその基本で最優先事項とわかっていた。それさえもできてなかったことが、よくわかった。倒れても意識不明になっても、下手すれば白骨になるまで見つけてくれる人がいないということも、その時あらためて痛感した。
動けるようになって、すぐに電話をかけて会議には行けないと断ったが、母の納骨のときとちがって、まったく後ろめたさも申し訳なさも感じなかったのは、我ながら大きな進歩だ。
それ以来、私は最低限の会議への出席以外は、いっさいの社会活動はやめることにした。政治に関心を持つことさえも当面は自分に禁じた。
20年ほど前に、子宮筋腫の手術をした。何キロあったか忘れたが、けっこうな大きさの筋腫を取って、腹部がぺちゃんこになって喜んでいたのに、いつの間にか、筋腫があった部分にちゃんと脂肪か何かがついて、体重も元に戻ってしまった。何かの時によくそれを思い出してしまう。
今回も、母の死によって生まれた時間的経済的余裕が、油断するとたちまち当面の必要にせまられたものから攻めこまれて、占拠されそうな気配を感じた。空白になった部分をどう使うかを決めるまでは、いっさいの活動を当面中止して、長期的計画的に、必要と判断したものをまず入れて行かないといけないと考えた。でないと、死ぬまで流されてしまう。
◇ちなみに三月初めの、のっぴきならない用事というのは、文化勲章をもらった大学の恩師の祝賀会でスピーチを頼まれていたことで、文化勲章なんかどうでもいいし(その先生が受賞したのを見れば、文化勲章もまあ捨てたもんじゃないな、というのが私の考えである)、その先生が私にしてくれたいろんなことへの感謝は人前で口に出すべきことでもないのだが、私なりに、めちゃくちゃ及ばずながら、その先生のなさったことやお人柄を、きちんと評価してお祝いに代えたかった。だが、そのためにも、その先生の教え子として、自分がこれからどう生きるのかは決めておきたかった。二月締め切りの論文をエッセイのようなかたちででも、とにかく書いておきたかったのは、それも書かないまま、研究者としての意識を忘れてしまったままだったら、とても、先生に立ち向かって、私の生き方をかけたあいさつはできないだろうと感じたからだ。
論文まがいのエッセイを書きあげて、呆然とし混乱し、自分の不勉強と研究への欲求をかみしめながら過ごした、その数日の内に私の気持ちは、それなりに形を整えて行った。
母のいなくなった後の余生にすることは、休むことでもないし、遊ぶことでもないし、戦うことでもない。死ぬまで私がすることは、ただ学ぶこと、研究すること、書くことだ。すべては、それが最優先で、他はあくまでも、その余技だ。そうすることでしか、結局は私は、世の中をよくすること、平和を守ることにも関われない。
恩師の祝賀会でのスピーチは、うまく行ったとは言えないかもしれないが、私なりに伝えたいことは伝えた。最後に私は、これからの人生は研究に生きると宣言し、恩師にこれからもご指導をよろしくお願いしますと言った。恩師の存在と