もしかして仮面夫婦?
最近死んだ猫のカツジのことばかり毎日書いてしまうので、読む人にもうんざりされるだろと、つつしもうと思うのだが、何しろ足を傷めているのもあって、毎日する仕事が、彼に関する後始末だの雑事だのばっかりになるのだから、どうしようもない。これで身体が万全なら、彼に気を使わなくてよくなった分、毎日ほっつき歩いて遊んで、おのずと話題も増えるのだが。
それに、これまで愛していっしょに暮らした犬や猫とちがって、カツジのことは思い出しても淋しいとか悲しいとか言うよりも、あいつはいったい何だったんだと思ってしまうのが始末が悪い。悲しもうにも苦しもうにも、いったい私は何を失ったんだろうと、そのことさえもが、はっきりしない。
今思うと、カツジは私にくっついて甘えていても、なぜかなめるということをまったくと言っていいほどしなかった。顔をくっつけほおをすりよせ、身体の上に乗って寝ていたが、頭をぐいぐいすりつけて押し上げるのが一番積極的な接触だった。
私の耳にかじりついてちゅうちゅうしゃぶるのが特技だったキャラメルは特別としても、普通の猫ならまずやる、あのざらざら舌でなめてくれる行動をカツジはまったくしなかった。考えてみればこれは相当珍しい。前にちょっと飼った人が、「お化粧もしない、のども鳴らさない猫」と言っていたが、化粧はけっこうするようになっていたし、のどもまあまあ鳴らしていた。ただ最後の数日ものどはまったく鳴らさずに、ただそれは、気持ちのいい時と同様、苦しい時も鳴らすと知っていたので、私はむしろ安心していた。
でも考えると、猫を飼っていたら欠かせない、あのざらざら舌でなめられる感触を彼については十六年間私は知らないままだったと思うと、そのことにさえも気づかずにいたことも含めて、今さらながら、とても不思議で、何だかセックスレスの夫婦生活を送っていたような思いにかられるってのは、あんまりだろうか(笑)。そのことを不自然にも不思議にも不満にもまったく感じていないままだった私も、思えば何だか相当おかしい。

などと、とつおいつ思い巡らしていたら、いきなり石破首相が退陣するとのことで、会見の中継をずっと聞いていた。
また明日にでもゆっくり書くが、立派な会見だった。
大河「べらぼう」で、飢え死にしかけて、ついに打ち壊しにいたる市井の人々と、まったく同時に対照的に、優雅でのどかで落ち着き払った城中の大名たちの様子が描かれる。その格差、その伝わらなさ、距離の遠さに、無理もないかと思いつつ、いらだちと寒々とした絶望感を感じる。それと同じように現代の日本でも、食べるものにも住むところにも苦しんで日々を過ごす人々の感覚と、ごちそう食べつつ政策談義にあけくれる政府の要人たちの感覚を思うと、つながりようも伝わりようもない、あまりの差に、いらだちでもだえたくなる。
だが、石破首相の今日の会見のスピーチには、すみずみまでも、その最低の生活をしている人々へのアンテナと目と耳が感じられた。世界の要人や大国やエリートたちに目を注ぐのではなく、彼の心は明らかに、恵まれない貧しい苦しむ人々の上にあった。ほとんど社民党や共産党の人たちのスピーチと同じ姿勢と視線を感じた。社民党や共産党の人々は、実際にそういう人たちと日常的に触れ合うから、そういう姿勢も難しくはないだろうが、そんな機会は少なくて、むしろ巨大権力やエリートやセレブのなかで暮らしている立場の人として、石破首相のまなざしは、驚きとともに信頼と感動を私に与えた。
今言えるのは、とりあえず、それだけだ。このような指導者を、私たちはまもなく失う。それが何をもたらすのか、私にはまだ何も考えられない。