やってることが雑すぎる
ロシアの軍隊がこともあろうに場所もあろうに、チェルノブイリの裏の森に塹壕掘って野営して、兵士たちが皆原爆症になって入院したとかいう話を聞いて、それがもしも本当なら、もうあまりにも目まいがするような雑さじゃないかとくらくらしたが、考えて見ると「放射能廃棄物」の映画を見て愕然としたように、冷戦で相手に勝とうとするあまり、米国もソ連も核汚染の問題についちゃ、本当に楽天的と言おうか無神経と言おうか鈍感と言おうか、その蓄積の結果がこういうことになるのかなあ。
このニュースでぞっとしてるのって、日本に比べりゃアメリカなんかもいまいち軽いか薄いかじゃないかと思うのね。だいたいハリウッドの映画で、ブルース・ウィリスでもハリソン・フォードでも危険地帯で放射能で被爆しても、シャワーか何か浴びて、もう大丈夫っていうような描き方だもん。それに比べりゃ「ハワイファイブオー」のスティーブだって、一回被爆して、ちょっと深刻だったけど、結局いつの間にか治ってぴんしゃかしてたもんなあ。
それといっしょにしていいのかどうか知らないが、キーウ(幼いころからの文学作品で「キエフ」になじみきった私には、ちょっと淋しい気もするけど、これは感傷ってものだろう)の市民の虐殺についても、ロシア軍にまず感じるのは、「死体を片づけるとかごまかすとか、そういうこともしないで手抜きもええかげんにせんかい」という腹立ちだ(そこかい、と怒られてもしかたがない、ひどい感覚ではあるが)。
でも結局これも、今までソ連やロシアが各地でやって来たことが、世界からも私からも見逃されてきた結果、「このくらい無事にすむだろう」って、たかのくくり方なんだろうな。その意味では、こういった雑さも、いかに小さい幾分かでも、私自身の責任である。
毎回書いてるせめてもの慰めは、こういう一般人の虐殺について「こんなことは絶対に許されない」と世界はもちろん、岸田総理までが言ってることで、それは同時にアメリカのベトナムでのソンミ虐殺、日本の南京大虐殺、そういったもろもろの行為や事件を、ダブルスタンダードではなく、ちゃんと意識し、断罪し、許されないことをしたのですよという確定につながることだが、ちゃんとできているのだろうか。(できてないよねー。Yahooのコメントとか見ても、ロシアの行為の残虐さに、日本もいつ被害者になるかも、っていう心配ばっかりしてるもの皆。そんなに遠くない昔に、日本が中国やあちこちで同じような行為の「加害者」になったことを、誰も思い出してないようなのが、私なんかは超恐い。きっとそりゃ中国や韓国や北朝鮮やアジアの国々は、もっと恐いでしょうよ。日本国民の発想と条件反射の、このていたらくを見たならば。)
アメリカもベトナム戦争で一般人を殺したとき、さまざまな見苦しい言い訳をしてたが(映画「英雄の条件」とかね。あ、リンクしようと検索したら、こんな立派な俳優たちが、こんなひどい映画に出てたのか。ネタばれですが、私は「真実はこうだ!」みたいなクライマックスで、被害者と思われていた現地人の少女が鬼畜のような形相で銃を撃ちまくる場面を、「え、これの何が悪いんだよ、これはパルチザンとして当然じゃろが」と思って、アメリカ映画人との感覚の落差に、ここまで米国は堕落したかと愕然としたのだよ)、そういう時に「一般市民とパルチザンの区別がつかない」みたいなグチがあって、実はこれは私も「たしかに、そだろーなー、無理ないなー」とひそかに同情はしてた。ただそれは、第二次世界大戦のとき、アメリカも含めてあれだけ世界が礼賛し支持し、その味方ということを誇りにしてた、ナチスやその傀儡へのレジスタンスや抵抗運動への共感や支持を、もう自分のものにできないということでもあるんだよね、とは思っていた。それは侵略者の宿命だ。
しかし、核兵器や放射能汚染については日本の感覚の方が欧米よりは正しいと思うけど、その一方で、日本の方もどういうか、甘いというか調子にのりやすいというか、こういうところ好きだなと思う一方、やりきれないほど嫌いだなと思いもする。
そりゃ、首相から野党から皆が一丸となって、ロシアをののしりウクライナを応援するという状況や機会はめったにあるものじゃないからね、オリンピックでさえ比べ物にならないぐらい、民族の一致やご近所との共感を何より幸せで居心地良いと思う人たちにとっちゃ、今の日本は、ぬるま湯や足湯みたいな快い天国でしょうよ(いや悪口じゃないってばさ)。
その心境はわからんでもないのよ。だからこそ、イラつきもするのよ。林外相がポーランドに出かけて、その帰りの飛行機にウクライナの難民を二十人ぐらい乗せて帰って来るって、人道的かなんか知らんけど、ちょっとおっちょこちょいすぎないか。たしかにこういうことって、勇み足や暴挙と紙一重のものだってことはわかるけど、シンドラーのリストやら杉浦千畝の命のビザみたいな決意や覚悟とは、ちょっとちがうみたいな気がしてならない。今なら少々のことしても、日本国内の雰囲気は気にしないだろうみたいな甘ったくれの意識をかすかに感じてしまう。
それが、ふだんから日本が移民や外国籍の人にちゃんとしたふるまいをしているのならともかく、移民や難民は大嫌いで、真実でもない単一民族の意識に酔い、二言目には日本人の文化や特質を自慢し強調したがり、なのに、いきなりこうだから、信用できないのよ。
在日韓国人に投票権も与えず、入管でウィシュマさんを虐殺に近い状態で死なせ、そういうことに痛みも反省も検証も向き合いもしない国民や政府が、いきなりこれだもん。落差が大きすぎて恐いよ。
私の知識なんて限られてるが、レマルクの小説とかしか読んでなくても、欧州の国々の移民や難民に対する知識や経験、感覚の蓄積と豊かさは日本のそれと比較にならない。アメリカはそもそも多民族の流入や混在をずっと抱えてきた国だ。彼らの難民の受け入れには、どんなに甘く行きあたりばったりに見えようと、それなりの哲学も根拠も覚悟もある。日本にはそれがあるとはとても思えない。
まあ唐突にすぎるけど、これは野良猫への餌やり問題とも共通するが、何も考えてない人が適当にやったことから、事態が動いて状況が変わり歴史が動くってこともあるから、日本のこういうやり方もいい結果を生むかも知れないし、そういう可能性も常にありはする。でも、その結果と可能性のためには、きっとものすごい犠牲も多く生まれると思うのよね。いいけど別に。知らんけど。と、けしからんワードを連発するけど。
今日、カーラジオで聞いたのでは、どこかの地方の餅屋さん(わ、ちょ、これ、検索したら、すぐ近くの町だった。後出の宇佐市と言い、私の周囲でこんな話って、何でこう多いのか)がウクライナへの連帯を示したくて国旗の色の黄色と青の餅を作って、日の丸を表す紅白の餅とセットで売り出すということで、これは喜んでほほえましくうれしく思っていいのか、かつてオバマ氏が大統領になった時に同じオバマという地名の都市が連帯のあいさつを送ったのに私が全身で感じた軽蔑と嫌悪と共通する憂鬱や苦笑で受けとめるべきなのか、ほんともうわからん。
行きつけのお店で、そのことを言うと、私の故郷の大分県の宇佐市でも、USAにつながるからと、トランプ大統領の就任のときにお祝いしたことを思い出させてくれた。そうそう、田舎の小さな駅の前に、ちょろいトランプハウスの飾りかなんかを作ったのだよね。やることがけちくさい分、オバマ市よりも情けないかも。
ロシアのウクライナ侵略が長引くにつれて、こういうことがいろいろ増えるんだろうなあ。でも、その黄と青の餅、ちょっと食べてみたい気がする(リンク先の映像で見たらけっこうきれいで、おいしそうだし)私も、もうかなりおかしくなってるのかもしれない。
「わが青春つきるとも」という映画のチラシをもらった。よさそうだから、紹介しておく。ちょっとどうでもいい文句もあるのだけど、これについては、また明日にでも書く。
まだまだ不十分かもしれないけど、一応お節句の飾りつけが終わりました。苦労して手に入れたあげく、まちがって二つ注文した「しだれ菖蒲」の内の一つは、下の家の廊下に飾りました。これが一番しっくりするみたいだし。猫のカツジがこういうものに、まるで興味を示さないのは本当に助かります。何だかだって、いい猫だわさ(笑)。本当は、この画像の手前のかごに寝てるんですけどね。そろそろ本猫に、ごあいさつさせますので、もうちょっとお待ちを。