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やめてくれ~

◎夏休みも終ったから、もう大丈夫とたかをくくっていたら、また古い知り合いから「久しぶりに会いたい」との連絡が入る。うう、何でもう、皆そんなに「舞踏会の手帖」ごっこをしたいんだろうか。
こういうことを言ってくる人たちは、もうそれぞれに自分の人生が完結してるんだろうなあ、ある程度。だから、あたりを見回す余裕があるんだろうが、私はまだ人生の白兵戦中でね、いろんな意味で。

「ブログを楽しみに読んでいます」と言いながら、「会いたい」と言ってくる人もいて、私は日本語を書いているのだろうかと、自分の表現能力および伝達能力に多大な不安を抱く毎日。
何と言って断ろうかと考えをめぐらすのが、また疲れる。その内に絶対ぶちきれて、とんでもない返事を書きそうで恐い。

◎どういうかなあ、私はときどき、30代や40代、50代に時間も金も何という無駄遣いをして、ドブとは言わないが、そのへんの運河に捨てたんだろう、あれだけムダにした時間や金や人づきあいを半分でも制限していたら、ましてや今ぐらいに緊縮財政つらぬいていたら、大金持ちになって大学者になっていたのになあと、ちょっと思ったりする。

だが、考え直してみると、それは絶対あり得ないので、つまり今私がこれだけケチケチ切りつめて生きていられるのも、いろんなことをしないで、人とほとんどつきあわないでいられるのも、あの若いころ、もうやることはやっちゃって、するだけの挑戦はしてしまって、やってみたり手に入れてみたり、つきあってみたりした先に何があるか何もないかの見当がだいたいついているからこそ、今の自分に必要なもの、ほしいもの、ゆずれないもの、失いたくないものが、速攻で見極め、見わけがつくから、だから、ほとんど何もなくても平気なのだ。
持たないでいるもののことが、ほとんどわかっているから、持ちたいと思わない。

◎私は人間とでも猫とでも、つきあう時は全力で全身全霊こめてつきあう。そうしないと、相手の一番いいところを知ることができないと思うからだ。しかし、それだけに、その相手の一番魅力的な部分を知ってしまうと、「見るべきほどのことは見つ」という心境になってしまう。それを見た上で、これを手放したくない、失いたくないと思えればいいのだろうが(よくないかな)、よしよし、これが限界か、じゃあもうこれで十分だと思うから始末が悪い。
で、猫でも人間でも、そのあとのつきあいはすべて義務になる。それはそれでも楽しいが、義務となったら限界があるから、当然、制限することになる。

若いときは、どこかにまだ何かがあるのではないかと、世界についても人間についても思っていた。そうやって、やみくもにかきあつめた思い出や知識はまだ整理できないまま、私の中につまっていて、とてもこれ以上手を広げられないし、広げたいとも思わない。
自分の仕事や人生に夢中になって邁進したり楽しんだりしている人なら、会っても多分楽しいし、何か困って具体的に助けを求めている人や、どん底にいる人には、それなりに何かしてやりたいとも思う。だが、漠然と私と会ったら何かどうにかなるのだろうとか、忘れたものが思い出せるだろうとか、もっと悪いのは今の毎日をやりすごす力をもらおうとかしている人たちと会う気はしない。もしかしたら、そうではないかもしれないが、そういう危険が感じられる人に会って、自分はいったい何をしたのかと虚しさをかみしめる危険など、今の私には冒せない。

◎う~む、ところでカツジ猫のいいところを私は引き出せているのであろうか。あの、いじけ目を見ている限り、あまりそうとも思えぬが。

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カツジ猫