わかる気がしますよ
ゆきうさぎさん
お母さまの気持ちが。(笑)
お母さまはきっと、ゆきうさぎさんが仕事をやめて家にいることにした時点で、もうご自分専用の存在になると思われたのでしょうね。
「家で職場のように仕事をする」ということがどんなことか、まったく想像もできないでおられたのではないでしょうか。
それは無理もないと思いますよ。私は大学勤務ですが、同じ職場にいて、大学での勤務が長い事務職員の方々でも、わかって下さる方ばかりとは限りません。
よくはわかりませんが、多分理解して下さってない方々の方が多いんじゃないですかね。特に上の方の方がそうだと、悲劇です。
いや、事務の方だけじゃない、教員でもそうですね。理系や実技系、教育系の方々にとっては、文系に多い「一人で仕事をする」「家で仕事をする」ということは見えにくい。むしろ見えない。だから実感としてわかっている人は少なく、それを理屈として理解して下さっている方でも、心のどこかには「何をしてるかわかったものじゃない」がおありじゃないかと思います。被害妄想かな?
だから「いつも研究室にいない」「学校に出てきてない」は怠け者の象徴のように思われるし、会議に多く出て、書類を多く書き、要するに事務の方のやっているのと同じ仕事をしていれば「よく働く」「仕事のできる」「まじめな」先生と思われる。
私は事務の方々の仕事は書類書きをはじめとして尊敬するし、高く評価もしますが、だからこそそれは、事務にしかできない仕事であって、教員のする仕事じゃない。同じことしかしないのだったら、教員としての価値はむしろ低い。
一方で世間や文科省の評価には、もちろん事務の方も真剣で切実ですから、著書論文その他の業績をあげる先生のことは評価してくれます。でもそういった論文や研究をいつどうやってしているのか、まったく考えて下さらないのですね~。大学に来ず会議にも必要最小限しか出ず家にこもっていたら、「あんなに仕事をしない先生がなぜ論文を書けるのか」とさえ思っておいでなのじゃないでしょうか。
ゆきうさぎさんのお母さまも多分そうなんでしょうが、多くの方々は論文や著書が(おそらくは小説も)空気から、または現実に存在しない別の時空の時間から生まれているとしか感じておられない。「あなたの相手をして三度の食事の世話をして、いつ自分の仕事をしていると思うの。できるわけがあると思うの」はゆきうさぎさんの実感でしょうが、それは大学でも同じで「会議にのべつまくなし出て、書類を山ほど書かされて、学生を指導して授業して、いつ論文を書き研究をしていると思っているの。できるわけがあると思うの」というのは現在のほぼすべての研究者の悲鳴でしょう。
共通しているのは、小刻みの時間をいくらもらっても、そんなのはクソの役にもたたないということです。鏡を拭くだのネギをきざむだのだったら、数分があまれば有効に使えます。研究、思索、創作はまとまった長時間とそれを好きに配分できる自由がないとまったく意味がありません。
昔は、いや少し以前までは何となく伝統や習慣でそのことは理解されていたのですが、最近はそれもくずされてきています。自衛隊の防衛費が「聖域」でなくなるのより先に、この聖域は消えるかも。そしてその方がよっぽど国の滅亡を招くと思うんですが、まあもう私の知ったこっちゃないや。