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カミュの「ペスト」を読み上げた

高校か中学のころ読んだ「ペスト」の文庫本は、薄めの二冊で字も小さく、子どもの視力でさえ読みにくかった。今度買った一冊が字も大きいのに一冊にまとまっているのが信じられない。すごくきれいで読みやすい。

母が「年をとって時間ができたら、うんと本を読もうと思っていたのに、実際は目が弱くなってすぐ疲れるから結局読めない」とぼやいていたのを聞いたことがあった。今、新聞の活字さえ大きくなり、こうやって文庫本も大きな字で楽にきれいに読めるのは何という幸福な時代に生まれたのかと恐れ多いほどだ。

読みにくかったせいもあって、意地でも最後まで読破したが、内容はほとんど覚えていなかった。小説を書こうとして、冒頭の一文の遂行に手間取って、まったく先へ進めない登場人物の一人のことしか記憶になかった。「美しく晴れた五月の朝まだき」「女騎手がブーローニュの森をかけめぐっていた」という、その一文だけは、ずっと忘れたことがなかった(笑)。

今読み直し、たしかに派手なところはちっともなく、哲学書か記録文書かというような淡々とした書きぶりは、スピルバーグの映画みたいなこれでもかというサービス満点の小説に慣れている今の時代の人たちは、とまどうだろうし、ひるむかもしれない。でもいいから、ぜひ読んで、などとあえて勧める気にもあまりならない。私だって昔読んだときは、その刺激のなさとサービスのなさについて行けなかったのだから。ぜひ読んでなどと宣伝するのさえ、この小説には下品すぎて申し訳ない気がしてしまう。

圧倒的な悲惨や苦悩や懊悩は、きちんと登場するのだ。節度を持って、それぞれほんのただ一度ずつ、静かに容赦なく。でも、そんな場面でさえ、それは読者を傷つけない。暗澹とさせないし、陰惨な気持ちをそそらない。少しもわざとらしくない、澄んだ静かさと、落ち着きと穏やかさが保たれている。絶望を与えない。安っぽい希望も与えない。

ペストが流行し閉鎖され隔離された町は、もちろん作者の空想による。なのに、徹底的にリアルで少しも嘘っぽくない。体験し知り抜いている人が書いているような、冷静な密度がある。

読んでいる間、小野不由美の「屍鬼」とか、ネビル・シュートの「渚にて」とか、大田洋子の「人間襤褸」とか、震災後の福島とか、今の武漢とか、閉ざされた場所や失われた世界や、そこで生きる人々のことをひとりでに思い浮かべた。「進撃の巨人」も連想した。「屍鬼」の主人公の一人である敏夫がタイプはちがうが、「ペスト」のリウ―と同じ医師だからかもしれない。そして、「ペスト」は終息する可能性もあるけれど、「渚にて」の放射能被害は一切救いがなく未来がなく、それでも町の人々は、「ペスト」の住民たちと同様に穏やかに懸命に日常を過ごしていたことも思い出された。

「ペスト」はそういう切迫した世界で生きるさまざまな人々の群像劇で、それはある意味限られた、予想もできる図式と展開しかないと言えばない。死ぬか、生き延びるか、脱走するかとどまるか、いくつかしか各人の運命についての予想の選択肢はない。そういう意味では意外性は限られる。だが、そんなことが問題ではないのは、この小説が閉鎖された町と市民全体に対して注ぐ、深い考察と分析の圧倒的な正確さ(あるいはそう見えるもの)だ。点綴される群像と、その背後の無名の死者と生者とは、まったく分離していない。

最初に続々登場する鼠の描写は、苦手な人には大変だろうが、他にちょっとだけ出て来る猫や犬や鳥なども、皆、カメオ出演のように効果的で、印象に残る。あまり多くない風景描写の、町や海や風や、それと人とのふれあいも同様に忘れがたい。

引用したい文章が随所にありすぎて、途中で覚えるのをあきらめてしまった。最後にもあるように、ペストは滅びたわけではなく、いつもまた再登場する可能性を秘めている。さまざまなものに、かたちを変えて。そういうときにそれと対峙して、私たちが決意し受容し、生きつづけるために、これらの文章はとても貴重であるだろう。

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カツジ猫