グラン・トリノ。
映画の話です(笑)。
イーストウッド監督作品はよく出来ていて裏切られないし、ためにもなるんだけど、安心して見てられる分、意外性がないのと、まっとうすぎて疲れるので、さほど見る気になれない。これも友人から感想文もらって(ちゃんとした雑誌のコラムだけど)、これがまた、いつも、まっとうで面白い感想書く人なので、読みたいけどネタばれ満載みたいだから、読もうと思えば映画見る他なくて、けっこうしぶしぶ見ました(何ちゅう文章だもう)。
でも失望はしないし、納得もした、それもいつものことだけど。
つまらんことから言いだすと、主人公のウォルトが床屋の友人と差別発言投げつけあって、じゃれあう友情が最高やなあ。私はキャラママに時々みせてもらう、教育関係の感想文やら、地域で配られる小学生の人権作文集など読むたびに、なぜかなんでか暗澹とするのよ。ことばで人を傷つけないとか、言ってる内容はまったく賛成なのに、なぜかちっとも安心できない。いろんな意味で恐くて恐くてしかたなくなる。こんなこと書いてるのが、嘘なら救われないし、本心だったら、もっと救われないと思う。
きれいごとは大事だと思う。昔、「女を大切にするようなこと言うやつは絶対大切にしない。おれは口は悪いが、女を大事にするし尊敬する」みたいなこと言うやつ、大きらいだった。むしろ、憎んだ。そうやって問題をごちゃごちゃにして、アタマいいつもりでいるのか、この低級人間と、しんから思ってた。口には出さなかったけど、そんなことしてるヒマないし、私がどう感じてるかなんて、こんなやつに教えてやりたくもなかったから。
ウォルトの床屋(ってのも差別用語か。百姓や大工と同じに。そういうのがもう、気にくわんのだよなあ)との会話も、そういう昔だったら、やっぱイヤだったろう。今の、この時代だから許せるどころか、むしろ救われるんだろう。だけど、昔でもウォルトはこうだったはずで、結局、時代の変遷で、「話がごちゃごちゃしない」部分が大きくなったってことなのかな。
「ターミナル」で、私が悪口言った彼みたいな人は、世の中の傾向が変わったと感じた時から、とっくにああいう発言はやめてる。多分、自分でも気づかないぐらい普通に、自然に。
で、ウォルトみたいな人は、これまた気づいてか気づかずにか、ともかく彼の本質の中にある何かが、そういう変化を自分にさせない。よかれあしかれ、世間が流れていく砂のように動いて行って、彼がもとのまま立っているだけで、その姿が河原の石柱みたいに、残ってしまうってわけだ。
そんな彼も、変化する部分がある。アジアの人たちに対する態度や感覚で、でも、それも考えてみれば、彼が朝鮮戦争の体験を風化させず、自分の中にコハクみたいにとじこめていたことと、つながってる。その記憶、というより記憶しつづけていた力が、彼を変化させる。時の流れに流されないかたくなさだけが持てる、柔軟さ。「ターミナル」の局長と、まったく対極の、異質なもの。
長くなりすぎたので、わけます。