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続きです、「グラン・トリノ」。

前の書き込みにつづけます。

もうひとつ感じたのは、「なんかもう、アメリカはこれだから、ずるい」ってことだった。朝鮮戦争でアジアの兵士にした残虐な行為は、ウォルトだけでなく、アメリカの、ひいてはイーストウッドの恥部である。だがそれを、かくさない。見つめて、向き合い、こんな名作を作る。これを見たら誰だって、ウォルトを許し、ひいてはアメリカを許すだろう。何より、アメリカ人自身が。

敵対したものをこうやって巻き込んで、自分たちの歴史の一部にしようという試みは「フォレスト・ガンプ」でも「英雄の条件」でも見た。どっちも私には超不愉快なだけで(「ガンプ」の方は、原作の小説の方は、もっとよくできてるらしいけど、映画のあまりの不愉快さに、読んでない。考えてみりゃ、きらいでもなかったトム・ハンクスがあれ以来うけつけなくなったのも、あの薄気味悪い「過ぎてしまえば皆仲間」精神だよな)、「英雄の条件」の方は、もうなんか、軽蔑を通り越して、そぞろ哀れまで感じたさね。でも、「グラン・トリノ」には、その不愉快さがまったくなかった。細かい配慮と骨太な精神がどちらも正しい方向で、映画の根底にあるからだろう。

そして、あらためて思うのだが、南京大虐殺をはじめとする残虐行為のさまざまを、全部なかったことにして、そんなことを知らせたら子どもたちが国に誇りを持てない愛せないとくだまいてる、自称愛国者の日本人とは、これはまあ何というちがいだろう。「告発のとき」だってそうだが、「ソフィーの選択」だってそうだが、愛する者や同胞が、何かまちがいをしたかもしれないと思ったら、それが無実ならもちろん、真実だった場合にこそ、それを抱きしめ、いとおしみ、その体験を追体験して理解し、ともにこれから生きる道をさがそうとするのが、国と同国人を愛する者のすることだろう。

戦争に行かされて、敵に対する残虐行為をさせられて、その結果、「そんな事実はなかった」「日本人はそんなことはしていない」などと言われた側の身になってみろ。こんなとこまで「自己責任」論って、はびこるのだな。
「悪いことしたのは、私とは関係ない人」という発想は、平和時にも現代にも、宮崎勤、林真須美、永田洋子、酒鬼薔薇、その他もろもろの人間を攻撃し異常人格と決めつけて、安心する精神とつながる。切り捨てて、切り捨てて、守っていこうとする共同体は残酷で、弱っちい。
私も含めて、戦争犯罪を告発する側にさえも、その、切り捨てと逃げの精神はあったと思う。「自分だって犯罪者と変わりない」「ひとごとではない。彼らも私の同国人、同時代人」という、共同体意識がそこにはない。

ついでに言うと、それは、そういう人たちを切り捨てると同時に、自分の中にあるそういう要素や傾向にも、目をつぶり封じ込めてしまうことで、これまた、ろくな結果を生まない。あ、だから私は教育関係の文章や人権作文にむかむかして暗澹として恐怖を感じるわけなので、わー、何とみごとにすべて、つながったではないか。と、自己満足。

ゆきうさぎさん、キャラママさん。
北朝鮮の脅威で思い出したけど、北朝鮮と韓国といっしょにしちゃいかんかもしれませんが、海外ドラマ「LOST」に韓国人の若い夫婦が出ますよね。しかもその背景の国の現状や風俗や伝統も、けっこうていねいに描写されてる。
まあ、イラクの兵士で拷問係のサイードが一番まっとう健全に見えたりしそうな、どこまで確信犯でやってるのか底が知れないドラマですから、そのへんの意図がどうなんだかわかるわけないですけど、何となくあれ見てて、「あ、こういうとき、アジア代表で描かれるのは、日本でも中国でもなく、今や韓国か」と感じた。

パール・バックの「大地」だの(古いな)、クロサワ映画だのが愛されていた時代は過去なのかな、みたいな。
2ちゃんねるなんかで、韓国に対する口汚い悪口は、もう日常化してますけど、私があれ見て不安なのは、ああいう品のない悪口って、基本的には弱者が強者に、敗者が勝者になげつけるものなんですよね。あるいは弱者や敗者になることへの予感が。
私は韓国の脅威とか、まるで感じたことがなかったけど、あれ見てると初めて、「あ、韓国って今、日本に勝ちつつあるのかもしれない」と実感しました。
下品で残酷になるのは、虐げられた者だけに許される特権で、その特権を行使してると、そういう存在でしかなくなるもんです。いつのまにか、あるいは、永遠に。

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カツジ猫