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シールズについて(1 新しい風)

◇時間がないので、だらだら長くなりそうだ(きっちりまとめるヒマがない)。

去年の秋ぐらいから、戦争法反対の抗議行動が続く中、私は時々、ある種奇妙な感覚にふっととらわれていた。
新しい風が吹いている。
新しい風景が見えている。
そう感じることが多くなった。

子どものころから田舎の選挙を間近に見て来て、大学でも学生運動をして、その後も何らかのかたちで、職場での組合の活動や、革新的な運動や平和を守る行動には参加していた。著名作家二人の合作した福岡を舞台とした長編小説(辻仁成・江國香織「右岸」「左岸」)を読んだとき、自分の生きてきた時代と小説の舞台が重なっていたにもかかわらず、「これが、あの福岡の、あの時代の町か。嘘だろ」と呆然としたほど、その小説には政治的、社会的な時代の動きがまったく描かれておらず、不満とかいうより何より私は、人によっては、あの時代もあの地域も私とはパラレルワールドもどきに、まったく別のものだったのかと、軽く感無量になったほどだ。

でも、そうやって、ずっと市民運動や政治活動に関心を持ちつづけていて、いつも私が見ていたのは、基本的にはどこか共通する同じような図式だった。大衆運動が盛り上がり、やがて分裂し、一部が過激化し、運動は衰退し、しかしやがてまた、異なるかたちで息を吹き返す。そうやって続いて行く。そういうかたちでも、政府や、上に立つ人たちの暴走や、戦争への傾斜を、ある程度は食いとめておくことには成功する。そのくり返しだった。

私はそれを、空しいと思ったことはない。絶望したこともない。そんな余裕はなかった。さらに言うなら、初めから絶望していた。「七人の侍」のリーダー勘兵衛が言うように、戦いはいつも負け戦で、そんなものだと思っていた。

それはもしかしたら、私の実体験だけでなく、徳永直「太陽のない町」のラストのように、革命小説や、もっと言うなら文学作品の多くは、そういう図式になっていたのかもしれない。そして、それは人類の歴史そのものの実態からつむぎ出された、現実の社会そのものの図式だったかもしれない。
絶望の中からの蜂起。
献身的でカリスマ性を持つリーダーたちと、それを崇拝して結集する民衆。
どれだけ正論を述べ、声をあげても変わらない支配層の態度。
絶望と怒り、分裂と過激化。そして弾圧。
滅びて、なお残る何か。
未来へのわずかな希望。

私はいつも、そうやって、同じような戦いと限界と挫折と再生を見て来た。「前にもどこかで見た風景」と、いつも感じながら、会議に出て、デモに出て、署名を集めて、そういう時に目にするのは、いつも、どこか見慣れた風景だった。虚構の小説でも、現実の体験でも。

◇それが、去年の後半、何度も、「もう私の羅針盤や地図はきかない」「今、目にしている風景は、これまでに見たことがない」「何か新しい世界がはじまっている」「もう、私の知識や、書いた小説では、解釈できない」「歴史はくり返さない」ということを、ふっと顔に吹きつけて来る風のように実感した。まるで、自分が新しく生まれ出て来ているような、驚きと緊張と悦びを、そんな時いつも実感した。「もう私の体験は役に立たない」と、新鮮な喜びをこめて、いつも思った。

私にそう思わせたのは、シールズだけではない、さまざまな要素が重なっている。
沖縄や共産党が積み上げてきた戦いもむろん大きいだろう。私が直接に、かなりはっきりと「これまでの常識が通用しない」と感じたのは、原発反対の国会周辺の数万人のデモだった。何度、それだけ大規模なデモがくり返されても、参加者が暴徒化せず、過激派の学生の動きもどうやってか封じられていることに、私は深く驚き、「何かこれまでとはちがう運動が起こっている」と感じはじめた。

中心になっている人物も組織も、はっきりしないことも、ふしぎだった。ミサオ・レッドウルフという、名前だけ聞けば何やらうさんくさいような(笑)代表者らしい人の名が耳に入ってきたのは、ずっと後で、そのこと自体も珍しく、その後もその人個人についての報道がまったくないのも、珍しかった。リーダーらしい存在がなく、烏合の衆にしては統制がとれ、暴徒化しない。それははっきりと、何か新しい時代の到来を私に告げた。

ネットで読んだ噂では、参院選後に野党共闘を批判した宇都宮健児氏は、この原発反対運動をした「反原連」への反発が強かったということだ。十分な情報もない今の時点で、私は宇都宮氏の発言や行動を否定はしていないが、もし、それが本当なら、その時点で、私の感じたような感覚とは、まったく違った受けとめ方を「反原連」の運動に対して宇都宮氏はされていたことになるのだろう。(つづく)

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カツジ猫