シールズについて(2 鳩のごとく、蛇のごとく)
◇シールズが初めて登場して来た時、従来と異なる今風のしゃれたスタイル、さまざまな男女の、それぞれが語る自分のことばに、私は共感し感心もしたが、そこには「やられた!」というような驚きはなく、むしろ自分がめざし、ある程度は実践してきた感覚に近いと感じた。「このデモの帰りには、お店でマツエクを買って」という女子学生の例のスピーチなど、学生時代から私自身が、「政治について発言し行動するのは私にとって、ありふれた日常の雑事の一つでしかない。下駄箱の掃除をし、冷蔵庫の中身を整理するように、私は政治について考え行動する」と言っていたことと、お洒落な点は別として(笑)、まったく同じ感覚と思った。等身大で素直で理路整然とした彼らのことばを聞いていて、こういう人たちが生まれ育って来ていたのだとほっとした。初めて、日本の、戦後の、豊かさを、どこかで実感したと言ってよい。
それでも、若者である以上、私はこれまでの日本や世界での多くの若者の運動がそうであったように、ある程度は尖鋭化したり、分裂したりすることはしかたがないと許容しようと思っていた。しかし政府の愚かしさと横暴さが露呈して行くにつれ、反対や抗議行動に加わる人が増えて行く中、彼らは一度も、そういう風にならなかった。次第に私が「どこか私の予想とちがう。この人たちは私の知らない新しい人種だ」と、漠然とだが確実に感じはじめたのは、彼らの誰もが、不思議なほどに、時として無気味なほどに、気負いがなく、民衆を啓蒙しようというエリート意識や義務感がなく、殉教者精神がなく、型破りな芸術家気質がなく、、「自分たちがやらなくて誰がやる」というような悲壮感がなかったことだった。彼らは、いかにも優等生で、落ちついていて、よき市民で、常識があって健全で、良識にあふれていた。これまでの革命家になく、今の政府になく、私自身にもないものの多くを彼らは持っていた。
おそらくは、それは日本の多くの庶民が、国民が、身につけている資質と近い。ただ、それで政治活動をするのが、シールズの新しさというだけである。そういう点では、日本国民のよきものを、彼らは体現していて、決して特殊な存在ではない。
◇彼らの行動や発言のすべてを追ってきたわけではない。それでも、いくつかのことが私の印象に残っている。ひとつは、わりと初期のころに、評論家の小林よしのり氏から対談を申しこまれたことだ。ネットでは、小林氏には近づかない方がいいという意見が多かった。私もどちらかというと、そう思ったが、小林氏は誠実で柔軟な面もあり、頭から接触を拒否したら、彼は強い反発と不信感を抱いて批判や攻撃をくり返すだろうし、そうなっても文句は言えないから、そのへんは難しいと考えていた。
すると結局、奥田愛基氏一人だけが対談に応じた。中心にいた一人の牛田氏は、さまざまに迷ったようだが、応じなかった。その理由も奥田氏は小林氏に告げていた。小林氏のメンツを守った、というと下品な言い方になるが、表面的な意味だけでなく、誠実な対応という意味で、小林氏の信頼も得たという、結果としては賢明な判断だったと思う。
小林氏は「疲れているようだった」と、奥田氏のことを書いていた。実際疲れていたのだろうが、それを隠すでもなく、もしかしたら利用さえしているかもしれないと私は最近になって思ったりする。ともあれ、その全体から伝わるのは、やみくもに相手を恐れず警戒せず、素直に、そして聡明に語ろうとする態度である。牧師の息子でもある奥田氏は当然知っているだろうが、新約聖書でキリストは弟子たちに「ハトのごとく素直に、ヘビのごとく聡かれ」と説く。それを何だか地で行っているなと、シールズの人たちを見ていて感じることがある。(つづく)