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ドヤ顔。

◇私は自分と意見のちがう人の発言や書きこみは、むしろ好きで読みたいのですが、それとは別に個人的好みっつうもんがあってですね。

したり顔(今風にいうとドヤ顔。これほんとに、いいことばだなと感心する)の態度や行動や発言って、ものすごく嫌いなんです。
もう、しょーーーーもない一例をあげると、近所に変な信号機があって、いやまあ変ってことでもないんですが、歩行者信号の青が点滅し始めて赤に変わってしまっても、車の方の信号はしばらく青のままなんですよ。そのあとの点滅も、黄色になっても多分長い(それは気のせいかしら)。とにかく黄色と合わせると、まあ黄色は止まれの印ではありますが、けっこうまだ車は通れます。

ところが、特に他県ナンバーのとか、まあそこをよく通らない車の中では、歩行者信号が赤になったとたんに、「ああ、もうすぐ信号が変わるのね」とスピードゆるめたり止まったりする車がそこそこいる。

黄色になったり点滅しはじめたとたんにスピードあげて交差点突破するのに比べれば、本当は立派な人なんでしょうけどね。多分本人もそれを誇りにしているのか(私は怒りにまかせると、どんどん想像力がふくらむ)、「私は安全運転をモットーとしています。だから、こういう時は無理なことはしません。後続車よ、よく見ておきなさい」みたいな精神が、車のうしろからただよってくるような気がする。

いいんですよ、それは大いに。でも信号はしっかりまだ青で点滅もしてないんですよ。それを歩行者信号も見て先を予測して全体的な判断してるつもりになってる人って、私に言わせりゃ、やっぱりどっかずれてます。

急いでない時はまたかと笑ってすませるんですが、寸秒を争う時なんか、ものすごくカッカします。

◇あ、その真逆のケースなんですが、これは信号がしっかり赤で止まってる車も多いとき、その後につけるのに、妙にゆっくり運転する人がいます。多分これは、「その内に信号が変わるかもしれないから、一旦停止しないで徐行のまま交差点を通過できるように、ゆるゆる行こう」と思ってるのでしょう。「それがスマートだ」「合理的だ」「ボク(アタシ)って何てかしこい、カッコいい」「後から野暮につめてくんなよー、どうせ赤じゃないか、あせらないで優雅に行きましょうよ」とか考えてるんだろ、どうせ、と、また私の想像力が無駄に回転しちまうのさ。

でも、これまた私のような人間は、交差点で止まってる間にすることや考えることって、けっこうたくさんあるのです。エアコン切り替えたりカセットデッキやカーラジオ操作したり、駐車料金の小銭確認したり、ETCカード挿入したり、水飲んだりスカーフ外したり、助手席のバッグ置き直したり、地図を確認したり、運転中にもできるけど、車とめるほどのことじゃないけど、しないで我慢していてもいいけど、交差点でとまった間にできたらいいなあ、というような、ちょっとしたことが山ほど。

その貴重な数秒を、「徐行だけで優雅に交差点を通過したいんですのあたくし。この賢さとスマートさを参考にしてあんたもマナーアップにはげめやバカ」とか思ってるやつのために削られるのががまんできません。

◇理不尽な要求ですかね? 「まわりにどんな事情のある人がいるのかは、あだやおろそかでは推測できない。規則や決まりは、そういうすべてのことを予測した最大公約数の人のために作られてるんだから、さしあたり基本の王道守っとけや」ということにすぎないと思うんですけど。

まあいいんですよ。実際の被害はわずかなんだし。ここで私が最大ムカつくのは、「私えらいやろ」というしたり顔、ドヤ顔だってことだと思うんですけどね。

私がいわゆるネトウヨの人たちを信用できないかなり大きな理由の一つは、ネットで見ていて、こういう物言いをする人が多いんですよ。まあ私が信頼し共感する立場や意見の人たちも、それこそ直近ではツッコミ不要とかブーメランやとか、簡単な片づけ方もしますけど、そうじゃない、かなり複雑で重要なことを、「わかるでしょ?」としたり顔で言うことが多い。それも、ものすごく限られた、恥しくて転げまわって死にたくなるぐらいの知識を、さも重要な発見のように披瀝する人が多い。

これってたしかにネット社会の特徴ででもあるんでしょうね。たとえばそこそこリベラルな人でもまあそこまでではない人でも、「沈黙しないで発言しよう」といくら言われても、「私の知らないことがあるかもしれない」「私が知らないだけかもしれない」と、慎み深く遠慮して、用心して何も言わないでいる人は圧倒的に多いのでしょう。
で、最近は忙しいし、じっくり考えたり調べたりするひまもない内に、その人たちの言いたかったこと、考えたことは闇に埋もれて行くのでしょう。

昨日、九条の会の学習会で発表して下さった方は、人前で話すのをとても苦にしておられて、そして私が紹介した「梅田さんは最初は、そこが原発だと知らなかった」という発言を、資料には書いていらっしゃいませんでした。「あまりのことで信じられなくて、本当かなあと思ったもので」とおっしゃっていました。裁判の冒頭陳述の発言なのにですよ(笑)。本当に良心的で慎重な方は、そのように遠慮されるのだと、何だか胸が衝かれる思いがしました。

そういう方には、無理かもしれないけど、やっぱりとにかく「言ってみましょう、声をあげましょう」と言いたいです。それで間違いを指摘されたり、反論されてそうだなと思ったら、謝って訂正すればいい。とりかえしのつかないことなんて、そんなにあるはずはない。ああ、でも今はそれが本当に難しくなっている世の中ですけど。ていうか、前から難しかったのですけど、最近はネット社会のおかげで、そういう恐れを知らない人、恥を知らない人がじゃかすかしゃべるのが、量として増えて、力を持ち始めてるから問題なのでしょうけどね。

◇まあ、私がとっさに思いつく、思い出す例としては、かなり前、漫画や映画の「テルマエ・ロマエ」への批判で、これは左翼の漫画であるみたいな攻撃をしてた人の書きこみが、「主人公の友人の名がマルクスである。これは共産主義のカール・マルクスからとっている」みたいな内容で、もう笑ってすませりゃいいのに、私が異様にムカついたのは「自分はカール・マルクスの名前を知っているから、誰も気づかないこれを指摘できたのだ」と思っているだろう(だってそうとしか思えない)「したり顔」の愚かしさと醜さでした。言うのもこっちがアホくさいですが、マルクス・アウレリウス皇帝をあげるまでもなく、マルクスなんて西欧じゃ多

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カツジ猫