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ドリトル先生

#スガやめろってハッシュタグがトレンド入りしてるみたいで、ご紹介しておきます。
閲覧注意と言いたいぐらい、殺気立ったコメントが多いですけど、それだけ皆の怒りの激しさがわかります。

昨日、久しぶりに会った若い同僚はマスクもしないようにしていて、「コロナが恐いと言って皆を同じように行動させようとしているのは政府の狙いで、どこまで国民に言うことを聞かせられるか見ている気がする。だから、皆が同じことをしないように、まとまらないようにする方がいいのでは」という意向のよう。

夜に電話して、久しぶりにしゃべった友人は「この田舎では、とにかく一番最初の感染者になるまいと、皆が戦々恐々。『あの道筋は危ない。四軒並んだ家の一軒は東京から息子たちが帰省するらしいし、その隣は福岡で働いている娘がいる』とか、ささやきあって近寄らないようにするレベル」だって。こういう温度差を笑ってしまえない年末だ。本来なら政府がきちんと調整するべきなのを、あのていたらくじゃね。私もつくづく人がよかった。スガ首相が連日会食し、時にははしごもしているなどと、いくら何でも予想していなかった。コロナとかいう前に、政府の関係者はもう皆、病んでいるという表現しかできない。

とりあえず私はコロナで廃人同様になる人もいるとかいう後遺症が恐いから、いっさいの危険には近づかないでいることにする。ジム行きもあきらめた。かわりにウォーキングでも始めようかと考えているけど、そんな時間あるのかな。

なかなか書けなかったというか描けなかった年賀状が、なぜか昨日一気にしあがって、私はわりときげんがいい。調子に乗ってもう印刷まで家のプリンターですませてしまった。すごくお見せしたくてうずうずする。
このところ年賀状を減らしにかかっているのですが、印刷し過ぎて、ちょっと余るかもしれない。もしもほしいという方は、「お手紙」欄からメール下さってご住所を教えて下さればお送りします。ただし、もう当分ひどい忙しさなので、ほんとにもう賀状だけね。メールのお返事、手紙やハガキのやりとり、電話でのお話、会食などなどは、いっさいできそうにありませんので、そこのところはご容赦を。

その賀状の絵の参考にしようと思って、講談社世界名作全集の「ドリトル先生航海記」を久しぶりに読んだ。子どものころに読んだ本はなくしたみたいなので、古本で注文して買ったやつで、けっこうしみだらけだけど、ちゃんと読める。

ドリトル先生が旅行に行く途中で立ち寄った、スペイン地方のある町で、闘牛をやめさせる話がある。牛たちと話し合って計画を立てた先生は、「もし町一番の闘牛士よりもすごい演技を自分が見せることができたら、永遠にこの町の闘牛をやめさせる」と町の有力者と約束して、実際に牛たちと協力してすばらしい演技を見せて、目的を果たし、牛たちを救う。

でも、町の人たちは「闘牛をやめさせた英国人」に怒って許せないと追いかけて来るので、先生たちは間一髪船に乗り込んで逃げ出す。闘牛の掛け金でもうけたお金をたっぷり持って(先生はそんなことに関心はないが、おつきの動物たちがしっかりしていて、ちゃんと金儲けもする)いるし、まあハッピーエンドの冒険だ。
でも、今、これを読んで、反射的に思ってしまうのは、闘牛が永遠に禁止されたことに怒って先生たちを襲ってくる町の人たちって、つまりそれほど怒るにしても、怒るからには、闘牛はきちんと廃止されたんだよね。約束どおりに。永遠に。

おとぎ話とは言え、まあそういう話でも圧倒的に「あり得ねーだろ」と思わせる不自然さは、多分これが書かれたころも、私が読んだころも、まだそんなにはなかったんじゃないか。「ベン・ハー」の戦車競技でもそうだけど、命を賭けてなされたことの約束は、有力者でも権力者でも守った。そうでないと、多分、その地位にいられなかった。もしかしたら、発展途上国とか、それ以前の国々でも、支配者や指導者はそうなのかもしれない。ひょっとしたら、今でも。

それがもう、ここ十数年の日本では、あり得ないという感覚になっているおぞましさ。ルールもマナーも手続きも通用しない、横紙破りの指導者や権力者の名にも値しない連中が、いったん否決されたことを再度投票してみたり、どんな約束もしきたりも、守らないのがあたりまえという感覚を、私たちの肌に汚いタトゥーのように毎日刻み込んで行っている。

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カツジ猫