ネフド砂漠をつっきれ。
◇映画「アラビアのロレンス」の中に「神の作りたもうた最悪の場所」とか言われる、オアシスもろくにない砂漠があって、ラクダが倒れはじめない前に、そこを通り過ぎないといけないのです。
私が非常勤で行っている大学は、大抵の大学のように、9月と10月は休みです。ただし先生方は会議だの特別講習だの何だので、ほとんど休みじゃありません。勤務していた頃、私はこの時期、あっちこっちで「お休み長くていいですねー」と言われるたびに、相手の首をしめたくなってたものでした。
今は非常勤ですから、休みはほんとに休みになります。その代わり給料がまったく入りません。この二か月私の生活はネフド砂漠を横切るようなもので、何とか無事に食いつないで、10月の授業再開まで生きのびなければなりません。休めて、自分の仕事ができる嬉しさと、それがごっちゃになってるのも、私が精神不安定な理由の一つかもしれません。
◇庭先に、沖縄のシーサーをおいています。昔むかし私が沖縄に旅行したとき、叔母におみやげに買ってきたものです。若い時で、かなりでかいのをスーツケースに入れて持ち帰ったような記憶があります。
叔母はそれをずっと玄関に飾ってくれていて、叔母が亡くなったあと、シーサーはまた私の所に来ました。二匹で対になっているのが普通なのでしょうが、これは一匹で、そのせいか、口の右と左のどっちかが開いてどっちかが閉じているような気がします。一人で「あ、うん」をやってるのかな。
今朝出かける時に見たら、そのシーサーの頭に、緑の大きなバッタがとまっていました。
カツジ猫がばらしてくれたように、資料を忘れて飛び出しているのにも気づかないで、私は家にとって返してカメラを持ってきて、バッタとシーサーを写しました。何だか面白かったので。
そして仕事をすまして夕方帰って来たら、バッタはまだシーサーのしっぽにとまっていました。よっぽど気に入ったのかどうしたのか気になります。もう寒いからバッタもそろそろ寿命がつきる頃なのかとか。「幸せの王子」のツバメを思い出してしまいました。
しかも最近、わが家の猫のような顔で庭に寝ている外猫のしまおが近くにいたので、食べられないかとそれも心配ですが、まあしまおは贅沢なエサをもらっていますから、バッタは口に合わないだろうと祈るばかりです。
◇そう言えば朝のNHKドラマ「花子とアン」で、飼い犬が戦争に連れて行かれてしまいましたね。「子どもと遊ぶしかできない犬です」と花子が言ってももちろん許してもらえないで。
ひょっとして毛皮の手袋にでもなったのかもしれませんが、軍用犬として役立つはずもない犬を、多分国民の決意をうながすためのような理由で連れて行く、あの精神が私はほとほと嫌いです。動物園の動物が殺されたのも、本当にエサが不足したとかいうより、非常時を意識させるためだったとかいう話を聞くと、同じように心からうんざりするし、ほとんど嫌悪で吐き気を催します。
以前大学で、夏に海の事故が起こって、学生が亡くなったことがありました。数日遺体が発見できなくて、地元の方々や警察の方が捜索にあたって下さいました。もちろんご家族もおいでになって、その様子を見守っておられました。
それは本当にいたましい事故だし捜索にあたる方々には申し訳なくも思いますが、私が許せなかったのはその間ずっと「地元の人やご家族に申し訳ないから」とかいう理由で、全教職員が真夏の浜辺にかり出されて、海を見守らされたことです。
何か役に立つことをしろというなら、それこそ地引網でも引くし海に潜るし、女性に限るとかいうのでなければ炊き出しでもしますし、本当にできることは何でもしますよ、いくら私でも。
でも、ただ「何もしてないわけじゃない」ことを示すためだけに、ふだんは出来ない研究や授業の準備をすべてやめて全教員が海を見守るためだけに集まって立ち尽くすという、あの精神が私には許せませんでした。
一応、ご遺体を目視で探すということにはなっていて、実際に河口で職員の一人が発見したのですが、大半の教員は浜辺でぎらつく海のかなたをじっと見ているしかなかったのです。もっと組織的で合理的で機能的な捜索が実施されるのなら、私も文句なんか言いません。
動物園の猛獣を殺処分にするのも、犬を戦場に供出するのも、結局はそういうことの線上にある気がしてしかたがありません。
役にも立たない犠牲を払うことによって、決意をかためさせる誠意を見せる、そんなのって最低です。
◇と思って怒っていたら、今日、資料を忘れて大あわてした文学講座が無事すんだ後で、そこの会場のロビーで週刊朝日がおいてあったのを読んでいたら、樋口恵子さんが動物のことを書いておられて、昔「暮らしの手帖」が特別号で「戦争中の暮らしの記録」というのを発行して、その中にあった読者の話というのを紹介していました。私はこの本を読んだはずなのですが、その話は覚えていませんでした。
何でも、犬を飼っていた女性が、供出されるのを避けようと、飼い犬をリュックに入れて疎開先まで隠して運んだそうです。犬は一声も鳴くこともなく無事に田舎に着いて、そこで終戦を迎えたとか。
「こういう、救われる話を最近は読みたくなってきた」と樋口さんは書いておられて、それはたしかに、もうとても救われる話なのですが、それは今になって私たちが読むからまだそうなのだけど、この特別号が出た当時、読んだ人の中には、犬を連れて行かれてしまった「花子とアン」のような読者もきっといて、その人たちはこれを読んで救われもしただろうけど同時に「なぜ自分はそうしてやらなかったろう」と、どんなにか自分を責めたのではないかと思うと、それも何だか思いやるだけで、とってもつらい。
もちろん皆がそうやってリュックで犬を運んだら(笑)、それは当然禁止されてしまうわけで、誰もがやるわけにはいかないことで、たまたまやって助かった人と犬がいる…という、そのことも、とてもつらい。
レマルクの小説やカンボジア虐殺の話を読んでると、そういう紙一重で運命が分かれて生きたり死んだりする人たちがあまりに多いので、もう、やりきれない。
◇こんなこと言ったりしたり書いたりしながら、私のハイな状態はまだ全然終わっ
てはいなくて、今日は本屋でもう何十年ぶりかに「花とゆめ」を買っちゃいました。「大奥」の続きが読みたかったし、ひかわきょうこがまだ元気に描いているのに、驚きながらうれしかったし、「パタリロ!」がまだ続いてるのには、もっと驚いたし(笑)。
しばらく、じっくり読みふけります♪♪