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ペーパーウェイトとめがね。

◇散らかりまくった家の中をひっくりかえしていて楽しいのは、ときどき思いがけない掘り出し物があることです。この前は退職前に研究室で大切にしていた、同僚の仏文学の先生からもらったペーパーウェイトが見つかりました。研究室を片づけるとき、クッキーのかんに大切にしまっておいたのが資料の間にまぎれていたと見えます。「これ、いいんやで」と、その先生から推奨されたもので、大小ふたつあって、丸く、ヒツジか何かの皮でくるんであります。
ちょっとちがうかもしれませんが、何だか近松の「冥途の飛脚」で忠兵衛が封印切りに使う金ってこんな感じの重さじゃなかったろかと思うような手頃な重さです。
ガラスのきれいなペーパーウェイトはいくつか持っているのですが、落っことしたら割れそうでいまいち気軽に使えないのだよねえ。これは見るからに丈夫そうで、適度に重いし、ありがたいです。

それと、そろそろ買い替えなきゃかなあと思っていた眼鏡が、ケースに入ったままの新しいのが一つ見つかったのだけど、こんな上等なのをどうしてしまっていたのか謎です。叔母が生きていたころに買ってくれたのだとしたら、もう十年近く前なのですが、かけて見たら度数はちょうどいいみたいだし。でも、そんな都合のいい話があるだろうか。何か不都合があったのじゃないかなあと、おっかなびっくり、ひっくりかえして見ているところです。

◇映画の「南極物語」、こちらはDVDが最近どっかで見たはずなのに、どこに行ったかわからなくて、つい見るのを先延ばししていたら、今日ジムのトレーニングマシンの上にあるテレビで、高倉健の追悼番組なのでしょうか、放映していて、走りながら見とれてしまい、首が痛くなりました。音はあまり聞こえないのですが、何度も見ている上にせりふも少ないので困りません。
健さんももちろんいいのですが、彼が基地に残した犬のことを思いやって、ひげをそりながら思わずこぶしで鏡をなぐって割ってしまったり、同僚の渡瀬恒彦はやけになって日本の子どもたちから送られた千羽鶴を海にちぎっては投げちぎっては投げ、そうやって人間たちが無力感と罪悪感にさいなまれている時に、基地では鎖を切ったり首輪から抜けたりした犬たちが(もちろん、それができなくて死んで行く者もいるわけですが)、群をなして全力で純白の雪原を疾走して行く、あの場面は何度見ても鳥肌が立ちます。あの感動は何なのだろう。人間の責任感や罪悪感さえ小さく滑稽に見せる野生や自然の讃歌なのか、許されないことをした人間を、そういうかたちで許すような、犬の姿を借りた命のたくましさなのか。
そしてやっぱり、風連のクマはいいなあ。犬たちの運命はあの部分も含めて、もちろんすべて創作でしょうが、それにしてもあんなキャラ、よくぞ作ってくれました。

◇毎日新聞の何かの記事か社説に、安部首相の経済政策の根幹をなす「金持ちがもうければ貧乏人もおこぼれで助かる」トリクルダウンという考え方はもはや経済界では、周回遅れの考え方で役に立たないとか書いてあったようですが(斜め読みでしっかり覚えていない)、そんなのそれこそ今ごろになって周回遅れで言ってほしくないわと思う。もっと早く言わんかい。

書こう書こうと思って書くヒマがないんでイラつくんですが、私はこのトリクルダウンって考え方がそもそもほんとに好かんのね。人間も国もだめにするって気がしてならない。
私は小さい時からわりと恵まれてる環境に育って、そりゃ上を見れば限りがない、ささやかなセレブでエリートだったと思うけど、それってものすごくいつも周囲に気を遣い、自分よりも不幸で恵まれていない人たちに何かをしてあげなくてはならないというプレッシャーにさいなまれる毎日でした。ちょっとでも愚痴を言えば「そのくらい何」「甘えてる」と一番親しい人たちからも常に言われつづけてきて、決して弱音を吐けなかった。
皇族や王室や富裕層って決して楽しいもんでも楽なもんでも幸福なもんでもない。そしてまた、そんなプレッシャー感じないで、自分の財産や幸運をひったすら満喫して他人がどうなってもいいと思うようになるとしたら、それはそれで大変な人格破壊、人間性の堕落であって、ドラッグ中毒なんかの比じゃないと思う。

◇自分の幸せ、快適さ、その他もろもろのものを、自分の実力でかちとったのだから誰に遠慮もなく味わっていいのだ自分はそれだけの努力をしたのだと何のうしろめたさもなく思える人って私は不安なんだよね何だか見ていてものすごく。
別に金持ちとか高い地位とかでなくても、ただ大人であるというだけでも、自分の与えられているものをきちんと把握して使いこなして行く責任は、その人ひとりひとりにあると思う。財産でも才能でも選挙権でも。
それをないがしろにしていると、絶対自分が腐って行く。もちろんそれは楽なことでもやさしいことでもないわけだけど、本来何かを持たされる人は、その何かをもらうと同時にそのことをも習って、身につけなくちゃならない。
それは、与える側の責任でもあるし、まあ金の話がわかりやすいから言うと、そりゃ金を持ったから金持ちになるわけだけど、その金で何を買うのか何に使うのか、そういうことを学んだり身につけたりする金も、それとは別に必要なのじゃないかと思うの。

◇「サイラス・マーナー」って小説の主人公は貧しい中でためた金貨を小屋にかくして、毎晩数えては楽しんでそれを生きがいにしてる。子どもの時にそれを読んでそういうものかと思ったせいか、私はたとえば今の日本で株でもうけた人が、その数字を見て一喜一憂するのは、それはそれでほおえましいと思う。でも本当はそうやって金をもうけたら、どう使うのか、その楽しみ方、そういう山ほど金があって優雅な暮らしをするやり方、そこまで身につけて学ぶほどの金をもうけさせてもらってる人というのは、もしかしたらほとんどいないのじゃないかという気がしてならない。

いつだったか、これもジムのテレビで見たのだったかしら、ものすごい金持ちの人たちのパーティーか何かをテレビが中継していた。でも見ていて、そのパーティーの会場の様子や人々のたたずまいや会話の内容、そういうもののすべてが私にはちっとも贅沢とは思えなかった。そしてパーティーのメインのイベントはマグロの解体ショーか何かで、まあ別にマグロの解体ショーが悪いとは言わんが、金を山ほどもうけた上で見られるのがそれかと思うとなんかちょっと、ちがうんじゃないかと思う。

◇私はトリクルダウンなんて、嫌いだし、実はこの言葉の響きもいやでならないのだが、もしも真剣にそういう
社会構造だか経済構造だかでやって行こうと思うなら、ちゃんとそれらしい金持ちを養成するような仕組みを作らないと意味ないと思う。住まいや衣装や持ち物や調度や趣味や快楽にものすごくこだわって、金に糸目をつけずに好きな映画や宝石や家や馬やレコードや(もう順序とかめちゃくちゃ)を買いこむセレブが増加してこそ、ものすごい経済効果も生まれるだろう。
だけど、本来貧乏なつましい生活でもやってけるような人が、金をもうけること自体が楽しくて金をためて自己満足してたって、そんなの経済効果になりようがない。もっと贅沢をしろと勧めても、最高級のものを鑑賞する目や味わう舌を養わせてもらってもいない人間たちに、何の欲望が生まれるっちゅうの。言っときますけどむろん私にもないよそんなもの。

つまり、格差を奨励し金持ち優遇の社会を作ろうとしてるように見えるけど、この国は私に言わせりゃどう見ても金持ちを作ることさえケチってるとしか見えない。株でもちょこちょこ買わせてささやかにもうけさせて、それで金持ちを作った気でいて、金持ちを作るのにもまるで元手をかけてない。まあ自民党だってそもそもは貧しい人たちに支持されてそうな政党だもんなあ。金持ちづくりがうまいはずないやん。
無理なんだよ、この国だか今の時代だか今の時代のこの国だかで、貧乏人までうるおすような金持ち大量生産しようなんて計画は。よかれあしかれ貧乏たらしいのがこの国のよさで、バブルの時だってそれは全然変わりはなかったと思うのだけどねあたくしは。

◇わー、ちょっと間があいたら、おしゃべりがとまんなくなった。そろそろ寝ます。
カツジ猫は、この前、庭から意気揚々と帰って来て、何かを床において見つめているので、行ってみたら灰茶色の蛾でした。まだ羽をぱたつかせていたので、とりあげて外に逃がしてやりましたが、どうなったかしらん。いつぞや大量発生していたまだら模様の毛虫のどれかだったのでしょうか。

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カツジ猫