1. TOP
  2. 岬のたき火
  3. 日記
  4. ヨモツヒラサカ。

ヨモツヒラサカ。

◇カツジ猫でなくても私が、やけ食いをしたい気分。というか、もう体調も気分もどん底だ。
とにもかくにも、静かに何も考えないで本を読みたい。専門の勉強をしたい。ポスト真実とか言うわけのわからない状況に対抗するためにも、せめて自分の専門ではしっかり勉強しておきたいのに、その時間がまったくとれない。せめて、ちゃんと勉強できる環境を作りたいとずっと家の片づけにはげんでいるわけだが、先週から連日の講演会や会議などで、片づけどころか、毎日の日常の洗濯掃除猫の世話さえままならない。私ももうトシだからと無理はしないようにしていたが、やむを得ないから、ちょっと無理してがんばってみたら、たちまち目まいがしそうになり、足がよろけて、まともに歩けなくなりかけた。まあ脳梗塞ではないようだが、こんな毎日だとどうなるか、それもわかったもんじゃない。

◇わかっているのだよね、これは母が生きているときや、今も猫の世話などで痛感する、私のドツボに落ちこむパターンで、他者やものごとへの献身やサービスに「貯金」ができると私が錯覚してしまうことなのだ。

たとえば、どうしても自分の都合で、この数日だけは邪魔をされない、自分の時間を確保しておこうと思ったとする。こういう時に私は、その分、それ以前に母や猫や学生や市民運動の仲間やに対し、精力的に一生懸命、いつにもましたサービスをする。少々無理をして倒れそうになっても。

何べん同じ失敗をしても、私がまちがえてしまうのは、そうして点をかせいで相手を満足させておけば、多めに与えたもので食いつないで、しばらくは満足していてくれるだろうから、ちょっとその後さぼって自分のことができるだろうという計算だ。イザナギがヨモツクニに妻のイザナミを迎えに行って、殺されそうになり必死に逃げたら、いろんな怪物(と言ってもいいんかな)に追いかけられて、ヨモツヒラサカで、いろんなものを投げて、桃とか何かだったっけ、それをシコメやなんか追っかけてきたのが、むしゃむしゃ食べてる間に時間をかせいで、ちょっとでも先に逃げのびようとする、あれですよ。

もう本当に何十回同じ失敗をしても、私はここんとこを学習しないのだよね。主として母と猫でそれを思い知らされたんですが、こういう蓄積や貯金や前倒しは絶対に効かないんです。あり得ないんです、存在しないんです。
その一時期ふだんより過剰なサービスをして、いつもよりいっしょにいてやったり、おいしいものを食べさせたりしたら、相手はぜったい、もうぜったい、それが普通と思いこみ、それが常態化されてしまう。その水準の維持をこっちに要求して来る。「こんなにいい思いさせてくれたんだから、その代わりにしばらく放っておかれても、この思い出で生きていける」なんて、死んでも思ってくれやしない。

◇結局こっちは、「来週来れないんだから」「当分相手できないんだから」という罪悪感で、必死に身体はってへとへとになって、ふだん以上のサービスして、さあこれでちょっとは許してもらって、心おきなく自分の仕事や旅行や趣味に打ちこめるかと思っていたら、とーんでもないとーんでもない、相手は「これだけできるんだから、来週もそれ以後も、ずーっとこうしてもらえるもの」という顔で、こちらが「がんばったごほうびに、ちょっと手抜きさせて」と思っても、そんなこと考えてもない。もう前のことは忘れてしまって、「できるんじゃない、じゃこれもこれもこれも」という感じで要求してくる。出血サービス期間の意味が、まったく伝わっていない。そしてこっちは、今まで骨身削った疲労と無力感と、普段以上の罪悪感にさいなまれながら、全力集中しなくちゃならない仕事や行事に立ち向かわなくちゃならない。

もう死にたくなりますよ。私が母が生きてる間に、ときどきもう母を殺して猫も殺して自分も死のうかと真剣に思ったのは、いつもそういう時でした。そういう時は本当に、母が施設に入っているのに感謝しました。相模原殺人の犯人とかじゃいざ知らず、私がそうそう簡単に殺しに行けない場所に母がいるということが。あそこで母が誰から守られているって、もしかしたら誰よりも娘の私から守られていたのかもしれない(笑)。自宅だったらほぼまちがいなく、私は母を手にかけていた。

母が死んでうれしいとかほっとしたとかいう感情は別にまったく私にはない。淋しいとか悲しいとかいう感情もまるでない。ただ、母を殺さないですんでよかったという気持ちはどこかにある。かなりある。
母は今も私とともにいると感じる。好きとか愛しているとかいう以上に母と一体化している気分だ。だからか知れないが、母が死んで一度も私は涙を流す気になれないし、泣けもしない。

◇だが、その私が、母の死にさえ泣きもしない私が、声をあげて泣きたくなるのは、今のこの忙しさ、仕事の進まなさ、好きなことのできないくやしさだ。本当に、号泣したい。母の死をゆっくり悲しむどころではない、この状況に何よりも泣きわめきたい。

一日でもいい、私を一人にしておいてほしい。そっとしておいてほしい。放っておいてほしい。世界に向かってそう叫びたい。それって、そんなに無理な注文なんだろうか。ひと月前に親が死んで、田舎の家を人手に渡した、心も身体もガタガタの私のような老人(言うかね)が周囲に求めるものとしては。助けてくれとは言わない。援助してくれとも望まない。なぐさめても、はげましても、いたわってもくれなくていい。そんな時間があったら、ただもう、私を私に下さい。私のために使わせて下さい。

Twitter Facebook
カツジ猫