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両天傘とごろふくれん

◎森為泰の紀行について書いたエッセイ、原稿はもう印刷に回っているのだが、引用した文章が、正しく読めているか自信がなくて、今日ちょっとチェックした。
明治初年で、為泰が四民平等になって庶民の服装が派手になったのを嘆いている部分で、男性は皆「ふくれんの帯」をしめているとあるのは、たしか「ごろふくれん」という生地があったなと記憶をたどって調べたら、輸入ものの、ごわごわした厚手の生地で、これは確定できた。ついで、「雨天傘」を誰もが持っているが、これはいらないものだとの評がある。これも何だか変だなあと、調べてみると「雨天」ではなく「両天傘」で、何の事はない、今の晴雨兼用傘だ。
やばかったなあ。今ならまだ、校正で十分直せる。

◎例のうぐいすですが、この二日ほど、ぱたっと鳴かなくなりました。とても心配です。やっぱりノラ猫に食べられちゃったかな。とは言え猫も生きていく上で、必死なんだろうし、すずめでも食っておけと言うのも、すずめに悪いしなあ。
一方では、朝顔のつるがのびて、網にからみつきはじめました。

◎じゅうばこさん

私の教え子で、日の丸・君が代問題で裁判をしている者もいて、私は一応支持していたし、「憲法は国家をしばって、国民ひとりひとりを守るもの」ということも知ってはいたのですが、何やらぼんやりした意識でした。
3日の憲法学習会で、霧が晴れたように、すっきりしました。

条例はもちろん民法や刑法、その他の法律で私たちは社会の秩序を保っているし、国益も守っている。しかし、その中で、個人の権利が著しく侵害された時には、憲法はその法律や条例を「やり過ぎ」と判断して無効にできるのです。
そうやって、公的な共同体の利益のために、国家のために、個人が犠牲になってしまうことを、憲法は防ぐのです。それは、近代になって人類が確認した、個人は誰もが全体のために犠牲になってはいけないという申し合わせで、それは人類の存続にもかかる貴重な財産に他ならない。

人類も日本人も私が思っていたよりずっと、進歩していたし立派だったのだなあと、あらためて驚いているところです。
これは、ことばや知識ではないですね。肌で、心で、誰もが納得しなければ、決して理解はできません。

森為泰は「行きすぎ」と嘆いていますが、彼がそう嘆きたくなったぐらいに、明治維新のあと「今の世は大名も家老も百姓も同じ人なり」(為泰の紀行より)と、人々が新しい世界を楽しんでいる様子が、紀行の原文からはびんびん伝わって来ます。
この喜び、この人類の歩みを私たちは大切にしなければいけません。それが国の伝統を守り、民族の過去と歴史に誇りを持つということではないの、自民党さん、安倍首相さん。

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カツジ猫