二つの映画
眠れない。
失ってしまったもののことを思うと、何一つ仕事が手につかない。
もうすぐに、それに到達できると思って、それだけを楽しみに、心の支えにして、毎日のいやなことにも、つらいことにも耐えてきた。
もうすぐだ、もうすぐだ、もう手が届くと思ったら、年をとるのも、ちっとも苦にならなかった。
その、めざす世界が、するべき仕事が、もう消えた。
いつまでたっても、そこにはもう、たどりつけない。
そのことが、信じられない。
あんなに長いこと、それをめざして歩いて来たのに。
どんなに遠くても、ずっと目の前にあったのに。
もう、どこに向かって歩けばいいのかわからない。
もう、何のために毎日を生きたらいいのかわからない。
昨日、このブログを読んで心配した若い人が食事に誘ってくれた。
その時に、先週の火曜日に何が起こったかを話し、
今、私が思い出しつづけている、二つの映画の話をした。
ひとつは、昔、友人と見た「魚が出て来た日」。
友人は、その映画の中で、放射能物質の封印された金属の箱を、それが何なのかもわからないで、必死に開けようとしつづけるヤギ飼いの夫婦が、見るのもいやだと、映画を見た後もずっとくり返していた。
それを開けることが、その島に住む人々すべてを滅ぼす、恐ろしい結果になることを知らないで、自分たちが何をしているかも知らないで、無心に熱心に開けようとしつづける夫婦が、我慢できない、耐えられないとくり返した。
私は、その友人の気持ちが完全にはわからなかった。
三十年もたった今、完全にわかったばかりか、もう、毎日、その気持ちしか味わえない。
憎しみでも怒りでもない、ただもう、とめどない、やりきれなさ。
もうひとつは、ナチスドイツの軍隊が、ソ連の村々を残虐に滅ぼした「炎628」という映画だ。
同僚の先生たちは絶賛していたが、私は若い主人公二人の、少女が変に女っぽく少年がいやに偉そうだった、そのことがまず拒否感を生んで、特に感動もせず衝撃も受けなかった。
ただ、最後に近く、住民たちを子どもも含めてすべて惨殺し、村に火をかけたドイツ兵が、一人だけ何の危害も加えなかった、もしかしたら百歳に近いかもしれない、しわだらけの、寝たきりの老婆を、ベッドごと運んで来て、大笑いしながら、その村が燃えつづける炎の前の雪の中に置き去りにして、「ばあさん、せいぜい子孫を作って村を再興しなよ」というような冗談を言って去って行く場面だけを、よく覚えている。
なぜ、あの場面だけを覚えているのだろう。
何か予感があったのか。何かの予兆だったのか。
老婆はしわだらけの顔の中で、目を見開いて、生きていた。
村のすべてが、その背後で炎となって燃えていた。
育つ子どもも、生まれる子どもも、もういない、灰になるだけの、彼女の村。
老婆はその炎の前で、雪の中で生きている。
目を見開いて。何ももう生み出せない老いた身体を横たえて。
それはそのまま、今の私だ。
心配し、同情してくれる人も、いつまでもこんな話を聞いたり読んだりしていたら、その内うんざりするだろう。
衰えて、消え去るにしても、そろそろその姿を見せないように封印するべき時かもしれない。
ただ、これだけは伝えておいた方がいいかもしれない。
私はもう二度と、きっと元には戻れない。
どんなに元のままに見えても、普通に元気にしているようでも、私の中には、常に、あの滅びた村の前で横たわる老婆がいる。
どんなに笑っても冗談を言っても幸福そうでも楽しそうにしていても、あの炎と雪と老婆は絶対に私の中から消えることはない。
それを忘れないでほしい、と、あえて言う。
そのことで私を好きでいてくれる人たちが、どんなに不幸になるにしても、私はあえて、それを言う。
また、もしかして、何かでどこかで、私をいまだにどんな意味でもライバルと思い、意識してくれている人がいたら、その人たちにも言っておく。
安心して。私はもう、終わった。
きっともう死ぬまで、あなたが気にするような存在になることはない。