会えたかな。
◇さっき、寝る前に歯をみがきながら、ちょっと外に出て見たら、雨はやんで、空は曇っていたが、明るかった。
織姫と彦星は会えたかもしれない。
◇全国の被害はひどくなる一方で、なじみのブログが更新されていなかったりすると、大丈夫かと心配になる。
田舎の元の我が家も、裏がすぐ川だから、住んでいる方は心配されているだろう。この何十年も氾濫したことはないが、大雨のときの川の様子は、なかなか迫力満点なのだ。
◇カツジ猫が大食いになって、「おやつ」だけだと不満そうなので、小さいかんづめを開けてやってみているが、そうすると多すぎるのか、残すので悩ましい。
でも、あのどしゃ降りの中、庭の砂場にちゃんとトイレをしていたのはえらい。もっとも、出入り口の階段のすぐそばで、砂もかけていなかったから、雨の中そそくさと用を足して、そのまま家に逃げこんだのかと思うと、何だかおかしい。
そして、ネットなどで見る、孤立した家屋からの救助要請の中に、「こちらは大人4人、子ども2人、猫1ぴきです」などとあるのを見ると、身につまされて胸が痛む。ペットがいるからと避難を遅らせた方もいるのではないかと思うと、ますますひとごとではない。
◇死刑執行と、その報道に関する、政府と一部のテレビ番組の醜悪さは、日本も終わったと思わせるものですが、一方で人々の良識や判断もまた、整ってすぐれたものになって来ているという気がして、少し心が落ち着きます。
「遺族の処罰感情が量刑を左右されるようになってからは、その処罰感情がもたらした結果が逆に遺族を苦しめるかもしれないと思うとほんとうに難しい問題だと思う。」
などと深く鋭く悩む人もいれば、
「いくら死刑が多くの賛成を得て存置する国であっても、『権力が人を殺す』ことへの思慮と『ほんとうにこれで正しいのだろうか?』という絶え間ない思索は必須です。その重みを自覚せずに、7人もの死刑執行をTVに事実『中継』させて『ショー』にさせる現政権の嗜虐性におののきます。」
「死刑制度自体の原理主義的是非と、これらの所業は、全く別のレベルにあります。人間の命を、社会秩序の維持のために苦渋の決断として敬意を持って奪うことと、いつでも殺せる虫ケラみたいな存在として虫カゴに入れて飼っておき、好きな時に殺すというのは、全く別の行為なのです。」
といった、まっとうな指摘や、
「オウム幹部の処刑自体はやむを得ないものですよ。日本は死刑制度を廃止していないし、大きな死刑反対運動も起きていない。死刑廃止論がまだ上陸していない。黒船が来る前の鎖国状態のようなものです。オウム事件ほどの凶悪事件では死刑判決も妥当でしょう。しかし今回の大量執行の問題はそこではない。」
「官邸も上手いように見えて、下手打ってるんですよね。国民栄誉賞はワールドカップ日本代表戦でかすんだし、今日のオウム処刑ショーも、日本列島の相当な部分では豪雨災害でそれどころではありません。焦って強引なことを思いつきでやるからそうなるんです。しかも頭の中は総裁選ばかり。」
のような、冷静で的確な判断。
官邸や一部の報道機関の粗悪化、劣悪化に比べて、もったいないような国民が育って来ているなと、ひしひしと実感し、泣いていいのか笑っていいのかわからなくなる。
詳しくは以下のツイッターなどをごらん下さい。オウム問題に長く関わってきた有田芳生さんの発言はいろいろと参考になります。
https://twitter.com/harumi19762015
https://twitter.com/jucnag
https://twitter.com/TOKYO_DEMOCRACY
https://twitter.com/aosakana