何もかもがつながっている気がしてならない。
◇今、手元に本がないので文章を確認できないのだが、かつてアラビアのロレンスが、「自分が信頼して無条件に献身できる目上の者を持てなかったのが不幸だった。そういう存在にすべてを捧げられることは思惟の経済であり、心の安らぎであるが、自分はついにそういうものは持てなかった」みたいなことを言ってたと思う。
※確認したら、こうでした。「知恵の七柱」の一部です。
「ただ命令のままに服従すること、それは思惟(しゆい)の経済であり(中略)吾々をして苦痛なしに活動を忘却させるものである。私を使役すべき上長者を見出さなかつたことが、私の一つの敗北だった。すべての人間が、無能からか、怯懦からか、それとも好んでさうしたのか、私に対して余りにも自由手腕を許してくれた、まるで我から進んで奴隷たることこそ、却って病める魂の誇りであり、身代りに受ける苦痛は却って最大の喜びであることに気づかないかの如くに。」
そりゃ、彼のような有能で複雑ですごい人がそんな存在持てるわけがない気もするが、スケールはともかく、その気持ちは私にもわかる。思想であれ宗教であれ個人であれ、何かを信じそのために自分をなげうつという生き方や精神は快い。そして私自身はどちらかというと、そういう喜びがわかるし、そういう理想や信念のために生きる人が好きだし、たとえ私自身にどんなに親切でいいことをしてくれても、そういう精神のない人というのは愛せない。私を傷つけ苦しめても、その人が何かそういう崇高なものに自分を捧げているなら、許せるし愛せる。それが全部ではないが、そういうところが私にはある。
余談だがだから私は警察官や自衛官やそういう人たちが、「愛する者を守るために戦うし、人も殺さなくてはならない」と決意するのが、いつも「何かちがう」と思ってしまう。そういう仕事についた人たちが、まっ先に誓わなくてはならないし誓ってほしいのは、「社会や国や民衆のためだったら、家族や恋人その他一番愛する者でも場合によったら殺さなくてはならない」と決意することでなくちゃならんのではないだろうか。でないとやっぱり困るだろう。
◇とにかく、そのように、自分のためや自分の愛する者のためではない、信念や理想のために命も心も捧げる生き方というのを私は好きだし、理解できる。
でも、もちろん、この考えや心境は危険なものにもなり得る。
最近よく人に言うのだが、戦後の自民党政治は私の大ざっぱなまとめでは、本当に日本を俗悪にした。金が第一、自分さえよければいいという精神の国にした。卑しい低級な現実しか見ない人間たちの国にした。
でも、それがまた自民党政治の最高の功績だったかもしれないのは、崇高さや清潔さが皆無だった分、そこに狂信めいた精神が生まれる余地はまったくなかった。そういう意味では、金にまみれていても、その精神は庶民的で、とことんサンチョ・パンサっぽかった。
そしてそれは、左翼や日教組の精神ともどこかで一致していた。あくまで自分を大切にして、個人の権利を第一にという教育は、もちろん正しいのだが、結局集団や他者のために自分を犠牲にすることなどない、これまた図々しい弱者の集団を生んだ(ほめてます)。
女性差別はすなわち男性差別でもある。女性は男性に守られる者である代わりにとことん男性につくしなさいという、両方の性にとってかなりしんどい手かせ足かせも、この自民党と日教組の共同作業による「自分さえよけりゃいい」精神が根づいて行くにつれて、次第に崩壊して行った。まだまだいろんな部分に奇怪なかたちで残滓は残るが、女性を守らないことも含めて、マッチョじゃない男性は増えてきているし、認められつつある。マザコンとかボーイズラブとか、いろんな混線を生みつつも。
◇私の母はしばしば、「でも今さら戦争しようとか言ったって、今の軟弱な若者が戦えるもんかね。私はそこに期待しているよ」と言っていた。
そう単純なものではないとは思うが、しかし少なくとも、天皇や首相や国のために自分の家や家族や財産や命をなげうつ、それを喜びとこそ思え苦痛には感じない、という精神は、あまり存在していない気がする。中国や韓国を憎悪し嫌悪する人たちの多くに、自分が武器をとってそれらの国と戦いますという決意や発想は、どう見てもない。そういう仕事は自衛隊か貧困層か自分以外の誰かがきっとしてくれると信じて疑っていないとしか思えない。老人の政治家や中年の評論家は言うまでもなく、自分が戦いに行く気はなさそうだし。それはいつの時代でもそうだが。
えっと、夜が更けてきたので、今日はここまで。また続けます(笑)。