何もかもがつながっている気がしてならない(続)。
◇もうちょっと行きますか。
でもアラビアのロレンスでもそうであるぐらいだから、人間には誰にもどこかに、崇高なもの、信じられるもの、主君、上司、恩師、そういったものを信頼し屈服し身も心もまかせてしまいたいという願望や欲望はあるものなのだ。
私の身近なところでは、キリスト教や共産党の人たちは、知性と良心を兼ね備えながら、そういう自分をなげうって大義?のために犠牲になって苦にしない精神を持っていた。私もそういう傾向はあった。
しかしそういう精神は、日本の戦後が左右両翼から培ってきたサンチョ・パンサ的精神からは恐れられたり嫌悪されたりすることもある。公明党の人への批判としてよく聞く、「あの人たちはもうこりかたまっていて、何も見えないから話してもムダ」みたいな言い方も、その一つだろうと思う。ちなみにヒマがないから考えないが、そういう意味では自民党と公明党の連帯や協力って、ものすごくどうなってるんだろうなと興味をそそられるが、それは今ちょっとおいとこう。
とにかく多分、そういうように何かに自分を捧げて悔いないという精神は、今の日本で多分決して多数派ではない。共産党やキリスト教の中でさえ多数派ではないかもしれない。知らんけど。それはそれで、悪いことでもない気がするけど。
ただ、サンチョ・パンサというとミュージカル映画の彼のイメージなんかとも重なるが(笑)、特に自民党が築いてきたそういう存在は、まだ泥臭く庶民のたくましさがあった。しかし平和と豊かさが続く中で、人々も若者も洗練され都会的になると、そういう強さや健全さは失われて、心も身体ももろくひよわな「図々しい弱者=自分さえよければ集団」が多数になってくる。
◇そしてまた、やっぱり人の中には、個体としても集団としても、捧げたい信じたい身をまかせたいという思いはあるのよ。そういう傾向の強い人とか、一人の中のそういう傾向とか、どっちにしても。サンチョ・パンサ的図太さが薄らぐとともに、「図々しい弱者」の中には、その傾向が強くなるかもしれない。
だから、エリートがオウム真理教みたいなのに抵抗できずに従ってしまう。
「日本会議の研究」の本を読んで、私の授業の大半を眠って過ごしているわりには時間の最後の小レポートでは何かつじつまのあったことをしっかり書いてくる学生たちなみに、とっさに頭に残ったことを走り書きすると、日本会議につどう人たちの知識や思索は決して豊富でも新鮮でもない。講演や演説でも、リベラルの悪口を言ったら拍手喝采みたいな状況で、複雑でも高度でもない。それはネットでの書きこみでもある程度見当がつく。だからいいんだろう。単純でわかりやすく、仮想敵相手に燃え上がれるから。
それと、その中心に、難病を克服した非常にカリスマ性の高い人物がいるという指摘があって、それはいろんな新宗教の教祖が病身だったり犯罪者だったりして、そこから復活して巨大なパワーやオーラを持って影響力を発揮するというのと共通するが、そういう存在を核にしているというところに私は、戦後の自民党と日教組が協力して育て上げた、「図々しい弱者=自分さえよければいい集団=サンチョ・パンサ」の世界にあきたりない、何かに身を捧げて安らぎたい人たちの願望や欲求が、一つのよりどころを見つけたのだなあと思った。そんなのんきな感想を持ってる場合じゃないかもしれないけど。
◇教師になったはじめのころ、教え子の何人かと話していて、私は「こいつら、エリートの義務感もなければ、落ちこぼれの危機感もない、とことん自分たちは普通で、だから人を救わなくてもいいし、団結してがんばらなくてもいいし、まったく何もする気がないのだな」と気づいて、呆然、慄然としたことがある。そういう理想や大義とはまったく無縁に生きる精神というのは、今ではずっと広範囲に定着していて、珍しくもないだろう。何しろ、ハリウッド映画のヒーローたちでさえ、なぜ自分たちが世界を救わなくてはならないのかと悩んだりしている時代なのだから。
でも、自分さえよければ精神というのは、特に最近のような世の中では、かなり危険になってしまっている。自分さえよければということは、言いかえれば他人との助け合いもない自己責任の世界だし、自分をなげうって他者や理想に献身する満足感もないのだから、投げ込まれるのは、果てしなく続く競合と競争だけで、すべりおちたら底がない。救いがないし満足もない。
キリスト教でも創価学会でも共産党でも日本会議でもオウム真理教でも、何かを信じて献身していられれば、それなりの安住と満足はどこかに何がしかはある。けれど、何だかよくわからない世間の基準に目をこらして、勝ち組か負け組かにふりわけられる恐怖と戦い続ける人間には、すべり落ちることは地獄への道でしかない。
相模原事件の若者が、障害者の施設で見たのは、というよりも彼にはそれしか見えなかったのは、そういう地獄ではなかったのだろうか。
◇私は母の入っている老人ホームで、たくさんの高齢者を見ている。心のこもったケアを受けていてもなお、尿臭がただよったり、こぼした食べ物で服が汚れたり、身体がゆがみ、顔もゆがみ、若々しく見える人でも口をきくととりとめがなかったりする。それが集団でいる風景は、ある意味すさまじい。
けれど、見ていると、目を閉じて眠っているような老人の顔に高貴な穏やかさがあることもある。無邪気にリハビリをしている老女の服装が個性的で独特の好みがうかがわれたりする。身体がゆがんで折れ曲がった老女が毎晩車いすの上で、じっと新聞を読んでいたりする。一度その人は回らぬ舌で政治情勢について一言二言私に語った。
彼らの過去を私は知らない。だが一人として同じ人はいない。彼らは今もひとり一人の人生を厳然と生きている。
障害者施設でも、きっとそうだろう。さまざまな症状はちがっても、見るに堪えない表情や行動はあっても、そこには多くの身体と心の神秘や謎がかくされていたろう。簡単には理解できない苦悩や歓喜が存在しただろう。それを哀れで先がないから殺して救ってやるしかないとしか見られなかった若者の、追いつめられた心と閉ざされた目を私は思う。そういう若者は、今も他に大勢いるのだろうと思うと、ひたすらに、もどかしい。
◇このブログでもしばしば紹介した「犬猫みなしご救援隊」のブログは、かわいい猫や犬と同時に、負傷し病み老いた動物たちの、時に恐ろしいほど無惨な写真を次第に多く見せるようになっている。私はその精神に敬服し共感する。見るか
げもないほど傷ついた動物たちの姿は、愛し守られいたわられている時、決して恐ろしいものではない。高齢者や障害者の写真をそうそう公開できないなら、せめて、このブログの傷ついた死にゆく動物たちの堂々と生きている姿を見てほしい。伝わるべき何かが、きっと伝わって来る。
◇一言追加。ちなみに、安倍首相がこの図式のどこにどう位置するかについては、微妙だ。私は彼の本質がよくわからんと、いつもいらいらしていたが、基本的には彼はむしろ、「図々しい弱者」の典型の思考や発想をするように見える。それだけに、負けてすべり落ちる恐怖も強く、一方で何か強く偉大に見えるものに身を捧げる快感にも引かれて日本会議から離れられない、つまりは今回の事件を起こした若者と、ものすごくよく似た資質と傾向を持つ人間のように感じる。きっと今、弱者や落伍者になるまいとして、弱者を排除して回ってるところなんだろう。
その点では彼は、日本会議に集まるような若者の、崇敬を集める中心では決してない。むしろ彼らと肩を並べる一人であり、尊敬もされないけど、親近感や同一感は持たれるのだろう。そこが人気の原因と言えばそうなのだろう。