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光のシャワー。

◇夕方、久しぶりに街に行ったら、どこもかしこもクリスマスか年末かのイルミネーションで、大変なことになっていました(笑)。博多駅のアミュプラザの上階で、その輝きを眼下に見ながら、クロックムッシュの夕食を食べました。最近どうしてか、やたらにチーズトーストが食べたかったので、満足したけど、欲を言うともっと単純なチーズトーストも食べてみたいなあ。自分で作りゃいいのか。明日レタスとチーズを買ってくるとしよう。ふむ、トマトもあった方がいいかもしれない。

光のシャワーを浴びるようにして、一人で街を歩いていると、とても楽しい。連れがあるのもいいのですが、結局ほんとに小さいときから、私が一番求めていたのは、孤独と自由だったなとあらためて思います。それが最もおびやかされるのが戦争だから、私は寸暇を惜しんで息をするように常に、戦争を起こす動き、めざすものを許さず戦ってきました。
でも、そうしていると、やはり同じ思いでがんばっている仲間たちとのつながりが生まれて来て、それはもちろんいやではないけど、ときどき本末転倒だなと思ってしまいます。

この季節は特にそうですが、華やかな町を歩いていて、かわいいきれいな色のセーターなどを見ると、あっ、母に買ってやろうかと本能的に思います。母を楽しませ幸福にするものを探して選ぶのが、私も楽しくて幸福でした。
もうその必要がなくなっても、淋しさや悲しさはなく、むしろたくさんの思い出がかきまわされて、いい香りが漂うように、ふんわりと満足感に満たされます。

母は老人ホームで大切に世話してもらっていましたが、死ぬときは一人でした。でも私はそれをちっとも不幸とも悲惨とも思わず、むしろ静かに一人で最後の時間を過ごせてよかったなと思ってしまいます。自分自身もできたら死ぬ時は一人でいたい、それが無理なら、死ぬ前のどこかで、ゆっくり一人になって思い出にふけってこの世と別れを告げる時間を確保したいと何となく願ってしまいます。

最愛の猫のキャラメルは私の腕の中で死にましたが、その前の何時間か、私は彼のそばにずっとつきそってはいませんでした。そうできたのに、しませんでした。彼のこの世の最後の時間を私がべったり全部独占したらいけないのじゃないかと、どこかで思っていました。だからしばらく、彼をベッドで一人でそっと寝かせておきました。そういう時間を、この世の最後に、彼に与えてやりたかった。

ちょっと長い目で見ると、もう私の人生は、まだまだ仕事もありますが、そろそろ終わりにさしかかっていて、そんな時に私が一番望むのは、孤独です。つきあいも、かかわりも、そろそろやめて、一人の時間を限りなく持ちたい。どんどん、その思いが強くなります。

言っちゃ何ですが、私は大勢の仲間といっしょに、さしあたり戦争を食いとめて来た。それなりに最低の仕事や環境も作って来た。それは結局は孤独と自由を確保するためでした。そろそろ、その本来の目的を、かなえたいと思っています。わがままなのかもしれないけれど。

でも、これ本当に一番近しい人たちからでも、なかなか理解されない。たまに理解されると「私もそうなんですよね!」と手をとりあって来られそうで、それもまたひじょーに困る。昔SF作家たちの座談会で「一匹狼の集団」という冗談が話されていて、私はいろんな意味で抱腹絶倒しましたけれど、孤独を愛する者どうしの連帯や共感や仲間意識なんてギャグですよ。そんな価値観や好みの一致を確認しあうのなんて、気味悪い以外の何物でもない。

◇上の家の応接間での読書は、「聖バルバラの漁民一揆」を読みあげて、「ザンジバル」に入っています。この古い文学全集、私は大学時代に買って読んでないのが多いのですが、珍しく、この「ザンジバル」は読んでいるのよね。ほとんど覚えていませんが(笑)。ナチスの勢いが増す中、港町の教会の小さな木像を、共産党員や漁師が船で運び出し、少年や若い女性も同行する、といった話で、うらさびしい中に緊張が漂い、好きな話でした。読み直してみても、やはり好きです。

「聖バルバラの漁民一揆」を書いたゼーガースは「死者はいつまでも若い」の作者なのね。私はこの作品も読みたかったけど、多分まだ読んでない。注文してみようかな。

◇カツジ猫は今また私の椅子の下のラグの上に、本当に犬のように腹ばって寝ています。椅子の上だとエアコンが暑すぎるのかしら。どう見ても猟犬の姿だよ。イギリスのお屋敷か何かで、ご主人の足元にはらばっている、そういう大型犬がいるじゃないか、カツジ君や。

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カツジ猫