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再録しておきます。

◇「大学入試物語」、やっぱりあんまり長いので、要点だけ(それでも長いが)を抜粋アップしておきます。
「不公平をのりこえるもの」という章から、二つの部分です。

◇(「不公平をのりこえるもの」より、以下抜粋・1)

 といった無駄話はおいておくとして、つまり受験生にとっては、もちろん万全の態勢で余裕をもって受験にのぞむのは当然だが、いくらそういうことをしていたとしても、やはり完璧な状況で試験に臨めるものではない。親が死んだり風邪をひいたり、電車が遅れたり受験票を忘れたり、消しゴムが汚れていたり机ががたついたり、隣の受験生が感じが悪かったり、あらゆることが絶対に起こるものである。そういうことはあたりまえで、あったらあったでしかたがないと思っていた方が、かえってきっと、気が楽だ。 私は他人をほめる人や集団というのが、あまり好きではなくて、敵であれ味方であれ「あいつは優秀なやつだ」などという人間を見ていると、何となくおまえは何さまだと思うのだが、いやつまり、人をほめるということは、自分がその人以上の存在だということを前提にしているとしか私には思えないので、これは相当失礼なことではないだろうか。しかし、そんな私がひねくれているのかもしれないと思わず反省したくなるほど素直に心から、学生たちはどうかすると「あいつは優秀ですよ、先生」と友人のことをほめあげる。「そうなのオ?」と私も一応、おとなしく聞いてはいるが、ときどきそういう優秀と言われる学生が(本人もきっといい迷惑なんじゃないかと思うが)、いつまでもあまりそれらしい成果をあげないような場合、周囲はそれに「あの人は優秀なんだけど、本当に運が悪くて」というのをセットでつけることがある。  何となく聞いていると、そういう人は高校入試のときは風邪をひき、大学入試のときは親が死に、発表会のときは事故にあい、決勝戦のときは失恋していて、いつも実力を発揮できないということらしい。大人げないとは思いながら私はつい、「それは結局、実力がないってことよ。運が悪いのでさえもない。私でもそうだし、誰だってそういう大事なときには何かが起こってそれでも黙ってがんばって、それなりの成果をおさめたか、その時はだめでも別の時にがんばって取り返してるので、言わないし、見ていてわからないだけよ。そんな大事なときに、体調は万全、皆が祝福、空は青空、みたいに完全に最高の状況でいられる人なんて、いるわけがなかろ」と言ってしまう。
 そもそも小説や映画や漫画のヒーローやヒロインも、ここ一番の大事な時には必ずライバルの卑劣な行動やら、信頼していた仲間の裏切りやら、天変地異やら何やかやで、ベストなどとはほど遠い状態の中で戦いをしいられるのが常である。それでも勝つからヒーローなのだが、別にヒーローだけではない、勝者は皆そうなのである。すべてが完全に整った理想的な状態でなければ発揮できない実力なんか、実力の内に入らない。私なんか卒業論文書いてる時に父親代わりだった祖父が死んだがそのことさえも今これを書くまでは忘れていたし、大学入試の時には世界史か日本史か選択科目を忘れていて受付で聞いて思い出した。学会発表の日の朝、資料が一枚欠けていて、見知らぬ町のコンビニで数百枚をコピーしてホテルのベッドの上で数百人分の資料を綴じ直したこともあった。そういうことはすべて、ない方がいいに決まっているが、あったからってあわててはいけないし、それで実力が発揮できないいいわけにはならない。  私は大学入試のミスや不備を弁護するために、これを書いているのではない。そういうミスも含めて、あらゆる不測の事態、不利な条件を、起こってあたりまえと思い、乗り越える方が絶対に受験生にとって有利だから、それを知ってほしくて書いている。そういうミスがあってはならないから、私たちは万全を期すし、全力をつくす。しかし、それでも起こった時には、それを嘆くより恨むより途方にくれるより、とにかく乗り切るしかないし、それをするのは自分自身しかいない。そう決心しておくだけで、実はずいぶん気が楽になる。完璧な条件が保障されているだろうかと、ひやひやびくびくしているよりは、その方がずっと楽しい。
◇(同上から抜粋・2)
 3 圧倒的な勝利  さて話をぐぐっと元に戻して、私が受験にあたって後輩や教え子に伝授していた心がけのその二は、吃水線というか、当落ぎりぎりのゾーンから少しでも遠くに(もちろん上方にだ)脱出しておけ、ということであった。 試験というものは人の能力や才能をはかるのに、役に立たない、と若いころには私も思ったことがある。だが、数多くの試験に携わってきた中で、今ではそうではないと実感している。試験は、たしかに人をふりわけるのに役に立つ。特に、試験を行って選抜する、その目的によくかなう者と、まったく不適当な者をわけるのには、きわめて力を発揮する。 ただ、どんな試験でも合否判定のぎりぎりの範囲にいる人たちにとっては、つまり一点二点差のあたりでは、その試験の正確さは非常に怪しくなる。 よく問題にされる、試験開始時間の数秒遅れとか、監督官のおしゃべりや靴音で気が散ったとか、そういうさまざまな要因で影響を受ける点数の差が、合否の差となり運命の分かれ道となるのは、この範囲の人たちで、その人たちの運命をこういった、ささいなミスが狂わせるというのなら、それはたしかに、そうである。  だが、あえて言うが、これはもうしかたがないと思ってもらうしかない。人生もそうかもしれないが、ささいな運命に左右されるというのは、それだけ不安定な位置に自分がいて、一か八かで挑戦しているということで、だめもとの受験ということでさえあるのだ。それよりもっと圧倒的に下の人にとっては、もっと万一の僥倖をたのんだ、だめもとであるが、ぎりぎりのラインにある人も結局は「誰が落ちるかわからない」場所にいるということで、それはもう「合格したら運がいい」ということでしかない。  これもいささか機密事項に関わるよう
な、微妙な話ではあるが、一番わかってもらえそうだから、あえて話しておくことにする。
 何十年も入試問題を作ってきた。次章でゆっくり述べるけれど、ひとつの問題を作るには、担当者同士で何度も検討会議をし、大変な時間とエネルギーを費やする。複数の解答が可能でないか、どこかの教科書を使っていたら有利になる要素はないか等、あらゆることを想定してチェックする。 そうやって作った問題が、よくできているかどうかをどこかの機関が評価し順位をつけることは今のところないようだ。かなり昔は週刊誌が「こんな変な問題がある」と主に国語の問題をやり玉にあげて記事にしていたが、最近はあまり見なくなった。 中には出版される過去問集のコメントや傾向と対策を気にして、皆で採点をしている会場に「ほら、うちの大学のこの前の国語の問題、『バランスがとれていい』『古典はさまざまな題材からまんべんなく出題される』って書いてある」と、過去問集を持ってきて、うれしそうに話し合っている先生たちもいて、私は他の点ではおおむね大変尊敬している、その先生方が、そんなものに一喜一憂して子どもみたいにはしゃいでいるのを、も~何だよ~と相当げんなりしていた。まあ、私の方も国文学者の立派な先生が、入試に「四書五経をすべて書け」という問題を出して「えらい不評だったらしい」と風の便りに聞いたことから、世間の評価は気にしない癖がどこかでついていたのかもしれない。  世間の評価は気にしないが、そんな私でも多分他の出題者も、かなり気になるのは実は受験生の答案そのものである。たとえば、Aが正解の問題を、圧倒的多数がCと解答していたら、そしてその理由がわからなかったら、こちらに気づかない不備があったかと思わず問題を読みなおしたりする。記述式の問題でも「○○は××に愛情を感じたからわざとそう言ったのだ」が正解なのに、多数が「○○は△△に怒りを抱いていたからそう言ったのだ」(実際にはこんなに単純な解答ではないが)というように、ほぼ同じ系統で同一のまちがいを多くすると、やはり動揺する。 特に、ほぼ他の部分は満点に近い、理想的な答えを書いている受験生が、その問題だけまちがっていると、そして似たような例が数人あったりすると、これはもうひそかに正直に白状してしまうと「やっぱり適当な設問ではなかったのだ」「こういう設問はやっぱり無理があったのだ」と、反省せざるを得ないことも、いつもではないが、確かにある。  私はそうやって「失敗だった」とひそかに思った問題の設問を、何年たっても忘れない。その問題だけまちがっていた、ほぼ満点の答案の書面や字体までもどうかすると思い出せたりする。 だが、めったにないことではあるが、そういうことが長い年月の間に何度かあると、同時に別の印象もまた積み重なって行った。 あってはならないことなのであるが、このように「しまった、不適当な問題だった」と出題者がひそかに反省するような問題を出されてしまうことは、受験生にとっては最高の不運で不幸である。だから、申し訳ない、ああしまったと思いながら採点するのだが、そのような受験生はその他の部分できちんと正解を出し点をかせいで、結局は、そのあまり適当でない問題で失った点数など大して問題ではないような高い点数を全体としてたたき出すのである。  念のために言っておくと、それは公にされても問題にはならない、第三者の評価機関がチェックしてもおそらく誰も気がつかない程度の「不具合」「不適当」で、現実に採点していて初めて気づくような微妙な「不備」だ。だからと言って、くれぐれもくりかえすが、私は自分を弁護するのではない。これはまずかったと後で思うような問題を出すことは決して許されない。確実にその優秀な受験生は、その問題によって被害を受け、とるべき点を失っている。だから、私の弁護にはならないし、何の慰めにもならないが、ただ、その中でゆらがない実感として蓄積された事実として私が知ったのは、しかるべき実力のある者にとっては、まったく理不尽な不当な原因による失敗は決して全体の運命を左右などしないということだった。 もちろん、古典の解答用紙がそうであっても、現代文や漢文が加わり、更に他の科目の数学や英語や社会が加われば、その受験生が最も得意でそこで点数を一点でもかせぎたかった古典の分野で、そういう欠陥問題で数点を失ったことが全体としては決定的に運命を左右するかもしれない。そういうことは事実としてあるだろうが、しかしそれは、ただ話の範囲が広がっただけで本質的には変わりはない。真に力があるのなら、古典で失敗しても全体としてとりかえす。更に言うなら仮に受験に失敗しても、人生の全体では得る物を得て幸せと満足をつかむだろう。 入試や選抜はたしかに一点で当落がわかれ、理不尽に人の将来を振り分ける。しかし、その一点に左右されない、もっと言うなら当落や運命に左右されない人生をめざすことは常に可能だ。どんなシステムも人間もまちがいをおかす。それにすべてを託し、信じて、自分の運命をゆだねる生き方をしないですむよう、努力しつづけることこそ何よりも必要なのだ。若いころの私は「すべての人が幸福な世の中を作る」ことをめざしていた。多分それも私なりの、そうした努力のひとつだった。具体的には選挙の投票とデモへの参加ぐらいしかしていないが、今でもそれは貯蓄や健康管理以上に、基本的には変わっていない私の人生設計だ。
◇ちなみに私は、この文章「大学入試物語」をセンター試験のたびに各新聞やテレビが、入試業務のミスを鬼の首でもとったようにこまごまとりあげて、えらそうにそればっかり報道しまくるのにあまりに腹が立って、現実を見てほしくて書いたのですが、今年の新聞を見ると、そういった報道がまったくなく、まさか私の文章の影響だとはさすがに思いませんが、まあ、よいことではあります。と言いながら、こんなに手のひら返しでまったく報道しなくなるなら、あの何年も続いた大騒ぎは何だったんだと、それはそれで腹立ちますけどね。       

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