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凶暴な気分(笑)

◇もうそろそろ、国文学史の授業も最後に近づいて、江戸後期の「戯作」について話さなくてはならないのだが、「戯作」って、江戸の中期以降のものなんだけど、寛政の改革をはさんで、前期と後期にわけられる。

こんな名前をつけたのが、そもそも悪いんだけど、絶対に「前期戯作」というと「江戸時代の前期」とまちがえる学生がいる。それも無理はないと思うので、毎年しつこく、「戯作と言ったら、江戸中期に中国文学の影響を受けて生まれる散文学ですから、江戸時代の前期には存在しません。(最近、西鶴も戯作という研究者も出て来てるけど、まだ定説にはなってない。)あくまでも、江戸時代後期のもので、その後期の中で、寛政の改革を境に前期と後期に分かれるので、前期戯作と言っても、江戸時代の後期のものです」と、口をすっぱくして説明する。ただくり返すだけじゃなく、前期と後期のちがいはどこかとか、そうなった時代背景は何かということまで、かみくだいて、関連づけて、これでもかと言うぐらいに説明しまくる。

◇さすがに、これで大抵は皆覚えてくれて、いつまでもつかは知らないが、その授業のあとの小レポートでは、皆一様に「戯作と言ったら、江戸時代後半で、前期戯作と言っても、江戸時代の後期の中での前期なんですね」みたいに一応書いてくれている。中には明らかに、「そこまでしつこく言わなくても覚えたよ、うざ」みたいな雰囲気がにじんでいるような気のするものもある。無理ないよと私も思う。同じことを何度もくり返すのは、私も実は超キライなのよ。でも一度で覚えてもらわないと、それでなくても戯作の話はジャンルも多くてややこしいから、これからあとが、ゆるゆる基盤の上に原発か米軍基地を作るみたいなことになってしまう。

「ここだけは今日確実に覚えておいて。でないと次回から、何が何だかわからなくなるから」と念を押しながら教えた。まあでも、これだけ長いこと教師をしていると、どこかで人間不信になるから、予想はしていたが、果たして小レポートの中に数枚、「前期戯作というのは江戸前期のことなのでしょうか」とか書いてる学生がいる。

私の授業は遅い時間帯なので、疲れて寝ている学生もよくいるが、たまたま前回はほとんど全員、ちゃんと起きて聞いていた。私語や内職をしている者もいなかった。現にその小レポートは私の話した内容をいろいろきちんと書いているから、ほとんどの部分を耳にしているのがわかる。それでいて、私がその話のすべてを、きちんと結びつけて有機的に関連させて説明して、九十分の間にたっぷり五回か六回は、「前期戯作と言っても江戸後期です」と、くり返したことが聞き取れてないというか、抜け落ちているというか、いったいぜんたいどうしたら、そういう曲芸ができるのだ。

◇私も性格悪いので、ものすごく皮肉たっぷりに意地悪に、こういう小レポートをさらしあげてギタギタにサカナにしてしまいそうになるのだが、あまりそういうことしても成果がありそうにもなく、私の精神がダークサイドに落ちるきっかけを作るだけのような気がするので、多分明日は、やんわりかすかに、天人の羽衣が岩をなでてすり減らす程度の注意で流すことになるだろうと思うのだが、あーもう、何だかむなしいなあ。若手の教員が言いそうな、こんなういういしい愚痴を、棺桶に片足つっこんでるような年寄りが言うっていうのも場違いすぎるが。

キリスト教で、九十九匹の羊をほっといても、迷子になった一匹の羊を探しに行く羊飼いの話があるけど、結局、前期戯作は江戸後期ということをわからないまま、戯作のジャンルや性質のややこしい話を聞いてしまう学生が、明日は少なくとも一人はいるわけだ。そういう頭の中で、どんなややこしいぐっちゃぐちゃの図式が勝手に構築されるのか、神のみぞ知るだよ、知りたくもないが。

ただ、そんなのが、一人はいることがわかっていて、残りの九十九匹に次の段階に至る詳しい説明するのが、何となく私はいやなのだなあ。それこそ、ずぶずぶの部分がある土地の上に高層建築建てて行くような虚しさを感じてしまう。

そんなことを考えてると、明日の予習も何となく気がのらない。あーあ、まったく私は教師に向いてない。人間にもひょっとしたら向いてないのかもしれない。と、何だかどんどん、やさぐれた気持ちになって行くから、もう寝よう。

◇買ったまま積んでいた本の中から「ほとんどないことにされている側から見た社会の話を」(小川たまか)を、引っ張り出して読んだら、読みやすくて、すぐに読めた。女性の置かれている立場について気づかれていないことの数々を訴えるといった内容なのだが、まっとうすぎて、ものたりないぐらいだった。これが世間に衝撃を与えているというのなら、そのことの方が衝撃的だ。広く読まれてほしいけど、それがどの程度、世の中を変える力になるのだろうかと、もやもやする。毒がない分、力がない。

さしあたり、まったくまるで関係ないような、見当違いの感想なのだが、これを読んで急に口走りたくなったのは、私は痴漢もレイプも許せないし、それに類したさまざまなことも許せないが、しかし、私自身に対するそれも含めて、痴漢やレイプをする男以上に、許せない、大嫌いな女って、今ぱっと思い浮かべただけでも五六人(五十六人ではない、念のため)は確実にいるなという事実だった。身近な人や友人知人や、赤の他人や架空の人物の中に、まんべんなく。

どうしてそんなことを考えたのかって?
それが自分でもわからない。
とにかく、この本には、私にそういうことを口走らずにはいられなくする何かがあった。
それが何かは、自分でもわからない。

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カツジ猫