初栗
◎わが家の裏の崖の上から、例年、栗が落ちてくる。相当な量で近所におすそわけするぐらいで、ありがたくいただいているが、ちょっとでも放置すると、虫はつくし、いがが土にまじって何年たってもとれず、えらいことになる。
だから、栗の落ちはじめる前に、裏庭の草をしっかりとっておかなくてはならないのだが、今年はそのヒマもなく、放置していた。
もしもう栗が落ちはじめているなら最悪だと思って、一念発起し、今朝、裏庭の草取りをした。
思ったほどひどい状態ではなく、特大のゴミ袋に6個で何とか草はなくなった。栗もまだ、それほどは落ちていなくて助かった。
食べられそうなのは三個しかなかったが、あとでゆでてみよう。
◎じゅうばこさん
女人禁制について、これまで周囲の人に聞いた反応では、「女子大があるのはどうなる?」「あれは女神さまで、女性を遠ざけているのだから、むしろ女性尊重なのでは」「男性だけの祭りなどもあるから、それらもすべて女人禁制を撤廃するのでなければ、意味がない」「結局、あまり行きたくもないところだから、女人禁制も問題にならなかったのでは」などなどです。
どれについても、まあいろいろと話すことはあるのでしょうが、こういうことは、じゅうばこさんから言っていただく方がいいのかな?(笑)
たとえば、自治体が世界遺産にするために、地元のそういう場所をさがして相談に行ったとき、女人禁制を守ってきた場所だったら、やはり「世界遺産にならなくてもいいから、女人禁制はこのままで」と、おっしゃるのではないかと思います。私は事実をまったく知らないから、あくまでも推測ですが。
それに対して自治体が、「ではそれはそのままでしかたがないから、世界遺産にする運動を進めさせて下さい」と言うのも、ある意味自然な流れなのかもしれない。
でも、たとえば私のように、あらゆる女人禁制にはいろんな意味で疑問を感じ、できればなくなってほしいと思っている者が、地元にもいることを、自治体の方は考えてほしかったと思う。
それが、世界遺産として登録されることに、複雑な思い、はっきり言ってかなりの苦痛を感じる人間も市民の中にはいるかもしれないことを、予測してほしかったと思う。
いったんそれを、町おこしということで推進しはじめたら、そういう声がなるべく表に出ないようにして、その問題にふれないようにして、どんどん宣伝をしてぬきさしならなくしていく方法は、私にはとても危険なものに思えます。
それは、原発や原子力関係の施設が持ちこまれることで、自治体の人たちの意見が対立し地域が分裂、断絶するという、大変な悲劇が生まれるのが、もしかしたら原発関連のものをうけいれた自治体の、一番大きな被害かもしれないという事実さえ、連想させてしまいます。
私は「寝た子を起すな」「そっとしておけ」といったたぐいの考えは、まったく好きではありません。でも、今回のこの件は、ひそかに心からそう感じています。
自分の住む近くに、女人禁制の場所があることに、ずっと複雑な思いをかみしめて生きて来ました。
何か、女性問題について発言したり行動したりしてきた者としての、責任のようなものも、いつも重く感じて来ました。
しかし、できれば、ひっそりと誰にも注目されないまま、このまま存続してくれるなら、私も何も言わないで、目をつぶっておこうと思っていたし、いつかは、時代の流れが解決してくれるだろうと期待して、次の時代の判断に託そうと思っていました。
それを、わざわざ、こうやって、私が発言し、いつもいろいろお世話になっている自治体の方々に不快な思いをさせなくてはならなくなったことについて、私はことの成り行きを、まったくうらめしく思っています。
原発を受け入れた自治体の多くは、過疎地で予算も少なくて、せっぱつまっていたという事情もありますが、私のいるこの自治体は、そういう点では、きわめて発展しつつある、とても住みやすい、何の問題もない地域です。いったいどうして、このような、住民感情が波立つ、あちこちで深刻な対立が起こりかねない、とても危険で微妙なことに、わざわざ手をつけたのか、私は本当に理解できません。
女人禁制のまま世界遺産に登録されたのでは、日本では吉野の大峰がありますが、そのときもフェミニズムの方々や人権団体から相当抗議があっています。
今回の事業も、実現可能が見えてくれば、そのような外部からの抗議も必ず起こるでしょう。少なくとも私は、そうなれば、その方々と同調せざるを得ないでしょう。今のようなかたちで、この問題にふれないまま、事態が推移して行くならば。
それは大変に残念なことだし、私にとっても、誰にとっても、多分いいことはひとつもありません。
何とか、そういう事態はさけられないかと思っているのです。