北極で虎狩
雨が降ると水まきをしないでいいから助かるのだが、庭で食事ができないからつまらない。
せめてこの間に家の中を片づけてしまおうと思っても、気候のせいか体調のせいか歳のせいか、こころも身体もとんともう、やる気が出なくて、朝からだらだらのびている。
悩ましいのは、上の家の押し入れを半分片づけて、まあまあきれいにカッコよくしたので、もう半分の押し入れも同じようにカッコよくしようかなと思うものの、そうするには、中に詰まったがらくたを引っ張り出さなくてはならず、また床が見えないほど、にっちもさっちも行かなくなる。その前に、今引きずり出しているものをとりあえず、処分なり譲渡なり再生なりして、床に空間を作りたいが、何だかそういうしんきくさい仕事をするのがいやだ。今から夜中までかかって、どっちの道を選ぶかだなあ。
切り花のアジサイがすぐにしおれてしまったのは、どうやらそもそもおしまいになりかけの花だったらしい。同じ時に切って来た小さなアジサイは、まだしゃんとして、目を楽しませてくれる。花屋さんで買ったかわいい花の横には、咲き乱れてる桔梗を一つ添えてみた。
そうこうしている間にカンナとグラジオラスも一気に咲きだして、まったくいったいどうしてくれよう。家が片づいていたら、すっきりしたお座敷風の空間に、これらを優雅に飾って楽しめるのになあ。ちっ。
ベッドに転がって漱石の文庫本を読んでいたら、どれもこれも味がちがって、予想がつかなくて面白い。さっき「野分」を読み上げた。金が万能の世相を無視して、学問や教養に生きる主人公と、それに惹かれる若者が、どこやら「こころ」の心情も思わせてほのぼのする。
この若者は友人が現実を楽しんで時流に乗っている(悪いやつじゃないのだけど)に対して、内省的で鬱々と楽しめない。この二人の友情も何だかほほえましいのだが、とにかくこの肺病も患ってる暗い方の若者が、ときどき「一人ぼっちだ」とつくづく感じるのも、何だか切なくて、かわいくて、妙に心をくすぐられる。そして主人公の貧乏な学者と散歩しながら会話して、「あなたは人よりすぐれたことをめざして、一段高い場所に立ってるのだから、一人ぼっちなのはあたりまえだ」と、悲壮感もなく淡々と言われて、変に安らぐのも、とても納得する。
そして、その学者の講演を聞きに行ったら、まあこれが終盤のクライマックスなのだけど、学者はみすぼらしいなりで、平気で聴衆に向かって、金などより学問が大切だということを堂々と語って、青年も聴衆も納得させる。
世間離れ、現実離れしているようで、その言い分のいちいちに、何だか心を打たれた。
「どうしたら学問で金がとれるだろうと云う質問程馬鹿げた事はない。学問は学者になるものである。金になるものではない。学問をして金をとる工夫を考えるのは北極へ行って虎狩をする様なものである」
むふふふふ。