壮大なる憂鬱
玄海町の町長が原発再開を認めたのは、地元の賛成派でさえ首をかしげているようなことを毎日新聞が書いている。
言いたいことは限りもないが、たとえば、こういう町には交付金を与えるより、危険迷惑金とかで、国や世界に対しての謝罪金、補償金を徴収する方が、今の一般の人たちの心情としては、はるかに自然にうけいれられそうな気がする。
同じ夕刊に「原発のウソ」の小出さんが紹介されていた。このように、いい意味でわかりやすい生き方をされてきた人の場合、ご本人の話も、記者の紹介の記事も大変すっきりして、わかりやすい。
小出さんは原発が子孫、次世代に核燃料廃棄物という負の遺産をのこすことについても言われていた。(ちなみに、これを遺産と一般に言われているが、それでは遺産が怒るだろう。遺産は少なくとも相続拒否はできるんだから。)
そのことは原発を廃止しなければならない、大きな理由のひとつと思うが、それにつけても思い出すのが、大学につとめていた長い間、いろんな大学で組織の改編や制度の改革があったとき、私がムカついた、むしろ信じられなかったひとつは、たとえば、若干不遇で条件の悪い部署がやむなくできてしまった時の解決法として、わりとふつうにとられた処置が、「今、そこにいる人たちは、順次そこから移動させる。そして、新しく採用する人をその部署に固定して行く」という解決法だったことだ。
実は私が何度目かに行った大学で、私はまさにその、「新しく来て、その部署に固定された」人間だったのだが、その部署が特に不快とも不遇とも労働条件が悪いとも思わなかった。
ただ、「そこにいるのがいやで」「新しく来る人をそこに固定する」ことを認めて、ちがう場所に移動した人たちといっしょに仕事をするのが、根本的にものすごく違和感があった。不快とか敵意とかいうより以前に不可解だった。新しい仲間をそういう風に迎えたことが、ばればれになっている職場で、古い人たちは平気でいられるのだろうかと、ずっと不思議でならなかった。自分がいやで逃亡した場所に、現に来ている人たちと、自分がそういう人間と知られた上で毎日すごす気分とはどんなものなのだろうかと、ときどき考えたものだった。
そこには、立派な先生もいたし、生涯の友人となった同僚もいる。まあ、そのころは、そういう大学改編のハシリの時期だったから、予測できないことも多かったのだろう。文学にたずさわる者ならそのくらい予測してもよかろうとも思うが、またそういう分野だから、そういったことには、うとい面もある。どのみち私は彼らにはっきり、そのことを問いかけるほど、その違和感を意識せず整理もしてはいなかった。
ただ、その後に移った大学で、またそういう改編が行われ、新しい未知の新部門が作られたとき、私が終始といおうか、ほとんど唯一主張したのは、「弱い立場の人、特にこれから採用される、今まだここにいない人を、そこに配置しては絶対にいけない」ということだった。「今、ここにいなくて、顔が見えない人、自分のために発言できない人のことを、最大に考えて、その代弁者として私たちは行動発言しなくてはならない」「今いる私たちが、ちょっとでも二の足をふむような部署は、絶対に作ってはいけない。もし作るなら、私たち自身がそこに固定化されるのでなくてはならない」と主張した。
それは毎回認めてもらえた。しかし、認めて賛同してくれた人たちも、実際には、そのことの意味や結果を十分に理解し予想していたわけではなかったかもしれない。(つまり単に私がギャ~ギャ~言った迫力に負けただけかもしれない。)
まだそこに実際に来ていない人、その場に存在しない人は、自分の要望も権利も主張できない。だからこそ、今いる者がおもんぱかって考えてやるしかない。
それは、新しく来る人のためではない。いやでも、その人たちは来るのだから、やがて目に見える存在になり、ともに生きて働く仲間となるのだから、そのときになって、その人たちのことが好きになり、考えてやりたくなっても、もう両者の間の溝は埋められない。
言いかえれば、まだ現存しない、目に見えない存在を、愛し、思いやる想像力がなければ、結局その人が登場し、加わった世界はどこか非常に不快なものになるだろう、双方にとって。
おっと、長くなりすぎたので、ちょっと切る。