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壮大なる憂鬱・その2(これで終わり)

前のつづき。

プルトニウムの半減期が数万年とかいうのだから、そのころの人類だか生物だかに、どうやって「これは危険です」という表示を核廃棄物に残しておけばいいのだ、というSFチックな笑えない笑い話もあるが、そんなことの前に私が心配なのは、まだ十分に意思疎通が可能な、まだ生まれていない新世代が地球に登場してきたときに、原発を稼働させていた最後の世代と彼らの間の関係は、不愉快なものになるだろうなあという、ためいきだ。
いっそ、そういう我々の世代が完全に死に絶えたあとなら、未来の世代は「あの、バカで自分勝手で、救いようのない世代」と私たちの世代を教科書に書いて、皆で呪っていればそれなりに人類の一致団結はできようが、その直前の、核廃棄物を残した世代と、その後の世代が共存している地球上は、さぞかし不愉快な時代だろうなあ。
もちろん、完全に私の知ったこっちゃない、また、どうしようもない未来のことではあるが。

少しまたちがうが、小出さんの「原発のウソ」を信用するなら、55歳以上の人間には放射能の影響はほとんどないそうで、60代の私など汚染野菜もばりばり食べていいらしいのだが、もちろん若い人、乳幼児、胎児には一番影響が多くて危険で、このことも何かうっとうしい。
すでに、上に書いたのと似た、世代間の格差が生まれた不愉快な世界が登場しはじめているような気がする。

原発を推進してきたのは、中曽根康弘はじめ、私たちの世代である。それに十分に反対できず、原発設置を許してしまったのも、私たちの世代である。
若い世代や、子どもたちにしてみれば、そんなろくでもないことをしておいて、自分らはもう放射能に影響を受けない身体になっているなどとは、どれだけ勝手な世代だと言いたくなるだろう。

だが、その一方で、平和を訴え核の廃絶を訴え原発に反対しつづけて来たのも、また私たちの世代である。
若い世代というのがどこからどこまでか、ひとくくりには言えないが、私たちがそれらの運動をつづけ、行動を訴え、政治への参加を呼びかけるたびに、ビラもうけとらず集会にも参加せず選挙の投票にさえ行かず、社会にも未来にも世界にも関心がないと公言して、それらの運動をしている人たちをバカにして、恐がって、無視してきた若い人たちもまた多かったはずである。
今の状況に若干やけになったとき、私の中には、ビラも受け取らず呼びかけにも耳をかさず、えらそうにしていた若者たちの姿がよみがえってくる。私は執念深いから、そういうことを忘れない。(笑)

そして、言ってはならないことだが、「私は押し返され、黙殺され、疲れ果てながら、それでも、自分の年齢が放射能に影響を受けない時期までは、何とか原発の被害を起こさないよう、守り抜いたし、がんばった。何だかだと言って、大多数がそれをしようとしなかった若い世代は、その責任はどうか自分でとってくれ」という気持ちがともすれば生まれる。

わかっている、ネルソン・マンデラなら、こんなことは言わない。小出先生も言わないだろう。本当に黙殺されても虐げられても、真実を訴え続けて戦った人なら、たとえ勝っても負けてもどうなっても、最後まで決して、こんなことは言わないし、考えもしない。
私のように中途半端にがんばった者が、こういうことを言いたくなるのだ。
そういう意味でも、今は(少なくとも私にとっては)危険な時期だと思う。
今でさえそうなのだから、脱原発の時代に原発世代がまだ生きている未来の地球は思いやられる。
こんなことを考えては憂鬱になっている私は、結局ヒマなのだろうか。

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カツジ猫