夜の町の絵。
◇今日は歌舞伎の昼の部を見て来ました。若いときはなあ、新幹線で東京に行って、通しの公演を朝から晩までぶっとおしで見たりしてたものだけど、もう年とって体力ないので、最近じゃ昼と夜の部はちがう日に行くことにしてる。
「双蝶々曲輪日記」は私も前に見たのだが、その時は「放駒の長吉が勝った!」と客が興奮して木戸から走り出して来るとこから始まったような気がする。今日は、その前の場面もやってくれて、濡髪長五郎の風格と放駒長吉のカルさとを、ベタに比較して見せる演出も楽しかったので私は満足したのだけど、幕間にコーヒー飲んでた時、隣に座った上品なおばさま二人は「お相撲取りの話なんか見てもねえ」と、何だかがっかりしたように、こそこそ話していておかしかった。「最後のは面白いのかしら」と言ってたが、どうだったんだろうね、「雁の便り」。のんびりしてて私は好きだったけど。
一幕見で、鯉のばしゃばしゃをもう一回見てやろうかと、ちょっと思った。あとで考えたら、口から水吐くのはともかくとして、しっぽで水をはねかして、最前列の三列目まで扇形に派手に水を飛ばすなんざ、なかなかできるワザではないから、あの鯉の役だって大変なもんだ。今日は千秋楽だったし何か趣向があるかもしれないし。鯉があいさつするとか(まさか)。
でも結局それはあきらめて、隣のアジア美術館でやってる山本二三展を見に行った。宮崎駿の映画の背景とか描く人の原画展で、「火垂るの墓」の焼け落ちる町とか、「もののけ姫」の森とか、「ラピュタ」の城とか、大きな壁画にしてあると迫力だった。原画は小さいが、ものすごく数が多くて、雰囲気もさまざまで充実した内容だった。
ハガキやグッズが売ってあったので、何枚か好きなハガキを買おうとしたが、その時になって気がついたのだが、どの絵もきれいでなつかしいのに、妙に悲しみを誘うのだった。「時を駆ける少女」の夜の町とか、明かりのついた家を外から描いてるのとか、どうしてこんなに悲しいのだろうと思うぐらい悲しくて、こんなの買ったら見るたびに落ち込むんじゃないかと心配になった。でも買ったけど(笑)。迷ったあげくに。
決して不快じゃないのだけど、ひとりでに開いた傷口から、とめどなく静かに血がしたたり落ちるように、悲しみが流れ出してくる、奇妙な感覚がどの絵にもあった。
多分、私特有のものなのかもしれない。幼いころにもらって持っていた、外国のカードで、いろんな小鳥が庭で遊んでいるのが一羽ずつ描いてあって、それを見ていても、同じように切なくて寂しかった。
現実に夜の町を歩いていて、そんな気分になったことは一回もない。それなのに、街灯が照らす道と両側の家の植え込みなどが描かれている絵を見ていると、まるで、たとえば飼い猫のカツジが迷い猫になって、さまよっているときに見ている風景のような、ものすごい不安と孤独がこみあげて来る。
その気分をもっとしっかり味わいたくて、また会場に戻ってふらふら絵を見ていたら、たとえば教室とか校庭とか理科の実験室とかの絵を見ていても、何だか不安な緊張がよみがえって来て、私は小中高通して決して不幸な学校生活じゃなかったのに、もしかしたら幸福じゃなかったのかなあと、あらためて思った。
いつも、自分の一部分は、どこかにおいたまま生活していて、その一部分がどこかで孤独だったのかもしれない。
あらためて思うが、もちろん今だって不快や不安や不満は山ほどあるものの、ひょっとして生まれてこのかた、今が一番私は幸福なのかもしれない。
いやまあ、その時々でおおむねいつも、私はそう感じていたような気はするが(笑)。
◇田んぼに水がはられて、緑の苗が風にゆらいでいる。田んぼの中に建つ家々は、まるで海に浮かぶ船のように見える。
しかし、地域によっては休耕田なのか、何も植えられないし水も張られないままで、茶色の土と雑草が広がっているところも多くて、見ているとちょっとめいる。
地球上で、シベリアの荒野とかアラビアの砂漠とか、作物も米も作れない場所は多い。米を作れるというだけで日本はどんなに恵まれていることだろう。政治的経済的理由から、この天の恵みを無駄にしていたら、本当にきっといいことはない。
◇7月〆切の原稿を何とかあらすじだけは書いてしまったのだが、夜中に書いた部分が多いので、酔っ払いのたわごとめいてるんじゃないかと心配だ。どのみち、骨格だけなので、今から肉をつけて衣装を着せないといけないので、まだまだ油断はできない。
「夜中に論文を書くもんじゃない」と昔、研究者仲間がよく言い合っていた。「昂揚して書くから、日中に読むと恥ずかしくて読めたもんじゃない」というのだが、それを聞いた一人が「そんなのは昼に読み直すから悪いんだ。夜に書いたものは、夜に読めばいい」と喝破して、誰も反論できなかったっけ。まあ、どっちみち今の私は、夜しか読み直す時間はなさそうなんだけど。