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天王山

指原氏の記事を検索しているときに、ちらっと見たような気がするのだが、たしか松本人志氏が、指原氏を支持する方向で、このような政治的発言は一度すると次もまたどうなんだと言われていつも何か言わなくてはならなくなるから慎重でありたいというような発言をされていたように思う。記憶で書いているので細かいところがちがっているかもしれない。

とっさに感じたのは、そんなに慎重に発言に配慮して生きておられるのかという驚きと、「一度言ったら次にも何か言わなくてはならない」プレッシャーもわかるが、「黙っていたら最後に何を言うのかと注目される」プレッシャーもあるのではないかという、いらぬ世話かもしれない心配だった。

私は日常でもいろんな会議でも、意見があるときは早めに言う。それでたたいてもらったら早く修正できるから時間の節約になるというのもあるが、最後に残って私の見解が決定打になるキーパーソンや天王山の位置にいるのがいやだからだ。それにふさわしいほど重要な意見を抱いている自信がない。

そう言えば、連句でもあるのですよ、似たようなことが。「孕み句(はらみく)」と言って一番してはならないことで、その影響もあるのかな私には。まさかとは思いますが。
「孕み句」についてはまた説明しますが、ことばも何だかいやですね。さすがにことばの芸術家たちは、いい命名をするものです。

天王山と言えば洞ヶ峠の筒井順慶は、戦いの帰趨を見て勝ちそうな方についたという日和見主義の語源にもなる逸話で有名だが(大河ドラマではどう描かれる予定なのか)、最後まで態度を鮮明にしない人が常にそういう意向だとは限らない。むしろ自分の共同体や社会での重要性を鑑みたり、自分の意見を最後に出すことで状況を一気に変えて勝利する役割を担おうとしたりなど、ある種の責任感を感じたりしていることもある。

ただ単に臆病で沈黙している場合もむろんある。それも悪いということではない。ただ私がわりと早めに自分の意見をぺらぺら言って態度をはっきりさせるのは、文学作品などでは、なぜか最後まで態度を保留して決定的な役割を果たす人は、ろくな最期をとげないというか、一番ひどい目にあって殺される場合がけっこう多く、そのトラウマもあるのかもしれない。主役だったらまあわりと最後まで生き残れる保障もあるが、重要な脇役あたりになると、そういう読者を感動させる捨て駒に使われていいことないぞ、そうはさせるか、という心境か。私は神は信じていないつもりだが、時々こうして、いないかもしれない神に妙な対抗意識を抱いて生きてしまう。

あ、そう言えば昔、同僚から「板坂さんが会議でべらべらしゃべってるときは、そんなに気にならないんだけどね。黙っていると何を考えているのかすごく気になってしかたがない」と言われたことがあったっけなあ。

私はそう言われるまで、それに気がつかなかった。少なくとも、「自分の言うことは皆に注目されている」と思ったり意識したり、そう気づいていることを周囲や相手にわかられたりするのは、すごくみっともないことだという意識があった。かつて五木寛之氏にも感じたことだが、どう言ったらいいのだろうか、それを口にしてしまうのは「おれセレブだもんね」と旅館の玄関で自分専用のスリッパをふと目で探してしまうのを他人に見られてしまうような、非常に恥ずかしいこととしか思えなかった。

「細菌群」「従順すぎる妹」の小説で、私たちは周囲の心理を読んで、それこそタイミングもすべて計算して世論を操作するフィクサーのような男女をよく描いた。現実にもやろうと思えばできるだろう。だが私は基本的には、それは汚い仕事だと考えている。

ところで安倍晋三に何かまだ考える力が残っているのか知らないが、少なくとも彼の支持者と仲間とは、今国会で改憲のための国民投票法案を成立させようとしているらしい。

つくづく、なぜこうやって、国民や政党を対立させ協力体制を作りにくくさせる重要案件を、今この時に持ち出すのか。

もう、はじめからわかっていたことだが、この内閣はコロナ対策なんかやる気はないんだな。

#国民投票法改正案に抗議します

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カツジ猫