小林多喜二と「組曲・虐殺」
チケットを買っていたので、風邪気味なのを押し切って、博多座に井上ひさしの戯曲「組曲・虐殺」を見に行きました。井上ひさしの戯曲は、そう好みではないのですが、これは本で読んだ時から面白そうだったので期待していました。ぶっ飛んでいるようで、まじめで、なかなかよかったです。高畑淳子はさすがに上手かった。他の役者も皆よかった。
空席が多かったのがもったいない。明日までですからまだの方はぜひ。
以前、むなかた九条の会で多喜二の母の映画「母」を上映して、私もその前の勉強会の資料作りで多喜二の全集を買って読んでいたりしたので、いろいろ重なり合って、知り合いの話を聞いているような気がしました。今、確認したら、その資料を私はホームページにあげてないようで、ちょっと以下に紹介しておきますね。いずれどこかに補充します。もうちょっと、長いバージョンもあるので。
講演メモ
(2017年5月21日 河東コミュニティセンター 板坂耀子)
○映画の原作三浦綾子の「母」は、セキが受洗してはいないということに気持ちをくじかれたりしたらしい、複雑な気持ちのせいか、作者の他の作品より味わいが深くて私は好きだった。
○原作と映画のちがいのひとつは葬儀の席で、多喜二の「ハウスキーパー」伊藤ふじ子が登場すること。拷問の場面の抑制とともに監督の手腕がみごとである。
○プロレタリア文学を今読むと、女性の立場やテロ行為に違和感があるかもしれないが、そこも理解したい。
○多喜二の小説は初期は兄や姉をモデルにした自分の貧しい家庭とか、若者らしい三角関係とか恋の悩みとかで、中でも売春婦の生活を彼女たちの立場で細やかに描いたものが多い。他にも小さい店の老婆(駄菓子屋)とか、巡査(山本巡査)とか、生活に苦しむ人に深く心を寄せている。キリスト教の影響もある。
○巡査への同情は後の小説(一九二八年三月十五日)にも現れ、井上ひさし「組曲・虐殺」も、それを利用している。
○もともと苦悩や絶望を描いても、太宰や自然主義やドストエフスキーとかとは一味ちがった明るさと強さがあるが、非合法活動に入ってそれを題材としはじめてからは、題材の内容が悲惨になるのと反対に、むしろ、その明るさと力強さが増している。北海道の自然描写(防雪林、不在地主、東倶知安行)や、民衆の群像(蟹工船、党生活者)もみごとに描かれている。
○虐殺の前後については江口渙の文章(全集に収録)があまりにも詳しい。
○佐多稲子「歯車」にも当夜の情景が描かれている(多喜二は仮名)。
○徳永直「妻よねむれ」には、多喜二の死の衝撃と戦後の決意があり、今読むと切実。
○佐多稲子は後に共産党を離れ、その際の仲間との対立も小説になっていて、これも今読むと胸が痛む。
○あらためて、現在の私たちのさまざまな運動が、「テロを否定していること」「仲間と分裂・対立しないでいること」の貴重さと幸福を思う。それを、ひたすらに守るだけではなく、常に検証し模索しながら、より豊かに、より強いものにして行くことが、多喜二をはじめ多くの人たちの苦しみや願いを無駄にせず、ひきついで行くことである。
○ちなみに多喜二が殺されたのは1933年2月20日で、日本が敗戦によって平和になるまで、それから12年かかっています。共謀罪がどうなるにせよ憲法がどうなるにせよ、皆さん、まだまだ先は長いです。ばてないように無理をしないで、元気にがんばりましょう。
なお、こちらは、当時のチラシです。
映画上映会のためのチラシ
小林多喜二と言えば、戦時中に治安維持法によって逮捕され、拘置所で苛酷な拷問を受けて死亡した、プロレタリア作家として知られています。1933年2月20日に築地警察署に逮捕され、29歳で亡くなりました。
「むなかた九条の会」では、「オール宗像市民連合」とともに、7月23日に、多喜二の母セキを描いた映画「母」の上映会を、宗像ユリックスで催します。
セキを演じるのは寺島しのぶ、多喜二を演じるのは塩谷瞬。監督は映画「望郷の鐘」を作った85歳の山田火砂子、原作はクリスチャンとしても知られる三浦綾子の小説です。
当時、治安維持法によって、一般人はもちろん、多くの芸術家、学者、宗教家が投獄され、獄死しました。創価学会の創始者である牧口常三郎氏もその一人です。伊勢神宮のお札を受けとることを拒否して1943年7月に逮捕され、獄中で考えを変えなかったため拘置され続け、翌年の11月に東京拘置所で栄養失調と老衰により73歳で亡くなりました。
29歳の若い作家も、73歳の老宗教家も、犯罪に関わったわけでもないのに逮捕され獄死せざるを得なかった治安維持法。
現在、国会で審議されている共謀罪の内容が、この治安維持法にそっくりということで、多くの人が不安を感じています。
映画の上映に先立ち、私たちは小林多喜二の小説について少し勉強しようと思いました。有名な「蟹工船」をはじめ、初期のみずみずしい青春の悩みを描いた作品などにふれ、また佐多稲子、徳永直など、同じ時代の作家たちの文章から、多喜二の死の前後の様子も見てみたいと思います。
あってはならないことが日常茶飯事だった時代。
その中で生きた人々、家族、母と子の思い。
文学を通して、それらの日々に、思いをはせて見てはどうでしょう。
どうぞお誘いあわせの上、またお一人でもお気軽にお出かけ下さい。