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小説「ヒロインズ」の爽やかさ

まあまあ早起きして、ごみ出しに行こうと思ったら、ゆうべ寝る前にうっかり椅子の上に放った短パンの上に、カツジ猫がどっかり丸くなって、いい気持ちそうに寝ている。こいつは鼻か喉か気管支系が弱いらしく、くうくうぐうぐういびきをかくので、その音がパソコン打ってるここまで聞こえてくる。ええいもう、どうしてくれよう。

夜はもう、窓を開けて寝ていると、タオルケット一枚では寒くなってきた。肌布団を追加するかな。ゆうべは、なかなか眠くならないので、「ヒロインズ」という、ずっと前に買ったままの本を読んでいた。ソフトカバーだけど、ものすごく分厚くて活字もわりと小さい。最近ジムに行ってないせいか、腕力が低下してるらしく、ずっと持ち上げて読んでるときつい。

内容は面白い。夫と田舎町に越して来て大学の非常勤(だっけ)してる女性が、自分の日常のうっとうしさと重ね合わせるように、いろんな文学その他に表れた、作家の妻やその周辺の女性たちのヒステリックな悩みや苦しみを並べ上げ、見つめて自分と重ね合わせるように語って行く。知っている名前が出てくるが、知らない女性も多い。かなりぐちゃぐちゃな書き方(もちろん意識して)だから、すぐ話がわからなくなりそうでいて、奇妙によくわかる。そして、陰々滅々と言えばそうだが、まるで不快ではなく、すいすい読める。

彼女は夫や周囲にもカリカリしてるが、それは健全だし、よく見てると周囲への配慮(警戒)もちゃんとあるし、孤独なようで孤独でないのは、たくさんの孤独の中に狂って行った過去の女性たちと心を通わせ、強く交流しているからだ。だから、その世界は閉塞的じゃないし、むしろ壮大で、爽快で、きらびやかにさえ見える。

夫に無視され、社会に黙殺され、才能や欲望を解放できないままに、さまざまなかたちで滅びて行った、主として作家の妻や恋人の群像がまぶしい。有吉佐和子の「華岡青洲の妻」みたいに、よく知られていた作家像や夫婦像が、焦点をずらし見方を変えるだけで、まったくちがった風景に見えてくる醍醐味が、こたえられない。そうだよな、そうなんだよなあと、数行ごとにいやされる。

ヴァージニア・ウルフは、最後はやっぱり自殺してしまったけれど、この問題をかなり客観的に整理し問い詰め、発信もした人だ。彼女の講演録「私だけの部屋」は私の愛読書、何気ないバイブルの一つだ。そこでの主張が、「ヒロインズ」でもひとつの骨格になっている。その彼女が「ダロウェイ夫人」を書いたとき、自分の狂気をヒロインのダロウェイ夫人には反映させず、戦争の後遺症に悩む若者に投影しているという指摘、さらに多くの男性作家が、自分の狂気や弱さを作品中の女性に投影しているという指摘には、苦笑しながら強く同感した。私も昔、小説を書くとき、自分の弱さは悩みは、皆男性に投影した。だから、女性としての悩みを描くのが困難だったけれど(笑)。

それと同じに男性作家が描く女性の、弱さや狂気は、もしかしたら彼自身のものではないかという疑いも、漠然とずっと感じていた。豊富な用例と迫力の記述で、その証明がくりひろげられる「ヒロインズ」は、実に私を癒やしてくれる。

智恵子の立場からしたら光太郎ってどうなの、という問いかけは日本でもあったし、小林多喜二をはじめとするプロレタリア作家の作品の中の女性の描かれ方も批判されることがあった。まあだから私は「妻よ眠れ」を書いた徳永直が好きなのだが。「ヒロインズ」に日本の小説は今のところ上がってないが、見ていけばもちろんいっぱいあるだろうな。

ずっと前から「赤毛のアン」シリーズに登場するパワフルで破壊的なおばさんたちの饒舌について書きたいと思っていて、果たせてないが、これもそれにつながって行く問題なのかもしれない。

「新聞記者」の感想ついでに、ぼやきまくった、森村桂や佐野洋子の悩みや痛みのうっとうしさ、さらに「新聞記者」のヒロインの女性記者にないのは(もちろんなくても別にいいが、それで私を落ちこませるのは)、「ヒロインズ」の、この地平線まで死者累々の、自分とつながる過去の亡霊たちの風景がないことだ。

新しい分強烈だから、またついでにワルクチを言うと、あの「新聞記者」の女性のたたずまい、自分が周囲とちがうからって、周囲の事情や状況をリサーチもせずに突進する、死にてえのかてめえと言いたくなる不用心さが、私はほとほといやだった。
そして自分と同じに戦おうとしない人たちへの、無関心と傲慢と。ほんと、周囲の心情の調査や取材もせんといて、よくそれで記者とかやってるな。

だいたいな、あの映画、どいつもこいつも泣きすぎなんだよ。そのくらいのことで人前で泣いてたら、涙がいくらあっても足りんぞ。人もショックを受けなくなるぞ。そんな、やっすい涙なんかには。あの涙腺のしまりのなさが、そもそも、ちっとも硬派の映画に見えなかった。

自分もかつてそうだったような気もするから、近親憎悪もまじるだろうが、皆が知っててわかってて黙ってることに、気づきもしないで、自分だけがそのこと知ってるつもりになって、得々と語り行動する熱血漢が私はほんとにいやでならない。自分が嫌われ阻害されるのは、自分が正しく優れているからだと思いこんでるらしいのに至っては、もう何をか言わんやだ。私は昔、「自分の主張が受け入れられないのは、主張がまちがってるからじゃなくて、私が嫌われてるからではないか。これでは主張に申し訳ない」といつも反省していたし、今もそんな風に考える人は多いだろう。これもこれで、ひきこもりかノイローゼになってしまう可能性があるから危険だが、あの女性記者見ていると、まったくそういう要素が感じられないから、ちっとも同情できないんだよね。

親が自殺したというのがいつも切り札みたいに使われるのも、最後にはあほらしくってあくびが出てくる。前にも書いたが私はふだんから、「それを言われたら、こっちは黙るしかない、受け入れるしかない」という事実を(ホロコーストとか南京大虐殺とか不治の病とか親が死んだとか猫が死んだとか)、自分を受け入れてもらえる切り札として使う人が許せない。そういうことは、もっと大事に大切に使えよ。で、そういうことで、こっちに圧力かけられると思ってる人に対しては私は「それが何なの」としか反応しない。甘ったれるんじゃねえよとしか言えない。「ああ、父ですか、アホなことしてくれて、こっちはいい迷惑です。私はああはなりたくないと思っていましてねがはははは」ぐらい言っとけよ。たとえ位牌の前で死ぬほど泣いても、そんなの自分でしまっとけよ。若山牧水の「みな人にそむきて一人われゆかんわが悲しみは人に許さじ」って和歌もあったりするんだからさ一応。

あー、こんだけ書いて、いびきの音が消えてるから、もしやと期待して見に行ったら、カツジ猫はあいかわらず、ぐっすりと私の服の上でおやすみ中。しゃかりきに働くはずの一週間の始まりのスタートを、よくもぶちこわしてくれるよなあ。

 

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カツジ猫