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屈折しまくり

◎以前ここで書いていた「ラフな格差論」でも少し書いたが、私は金持ちや天才は、基本的に、こそこそ、ひっそり、生きているものだと思っている。(笑)
どちらも、ひどく危険なことで、他人の恨みをかいやすいものだから、めだたないように世をしのび、人目をおそれて、ひっそりと、自分のめぐまれた環境や素質を楽しんでいるものだろうと思っている。

たまたま、その幸福が発見されて、寄付をしろとか税金を払えとか言われたら、無駄な抵抗はしないで、さささと払って、また自分の穴にかくれているものだと思っている。
すべて、あくまで、ただのイメージではあるのだが。

◎少し前から、テレビでもその他でも、自分の富をおおっぴらにひけらかす、あるいは求められれば見せる人が増えてきて、私は見るたび妙に混乱し、冷や冷やする。
同様に、読書量、知識量、思考力、その他をあからさまに見せる人を見ると、これまた妙に胸がどきどきしてしまう。

私自身が乏しいなりに自分の知識や見解を示すときは、すべて、何らかの魂胆がある。人に信頼されたいとか、人に愛されたいとか、人を喜ばせたいとか、この世の中を(多分、自分にとって)快適にしたいとか。そういう具体的な目的があるときでなければ、私は自分の長所や強みも、欠点同様、見せたくはない。

私を楽しませたいと知識をひけらかす人は好きだ。私を説得しようと理論を展開する人も好きだ。だが、何のためにそうしているかわからない人を見ると、私はいつも少し落ち着かない。

私はまた、他人への好悪や評価も必要がない限り示さない。と言うより大抵の相手を私は好きでも嫌いでもないし、信じていいかどうかも決めかねている。
もっと言うなら、相当に嫌いな人でも、私自身や世の中のために何かの役には立つだろうと感じていることが、よくある。

◎前の書き込みと、その後のコメントに書いた、佐藤氏や橋本氏の本を読んだときに、私が感じる不安はきっと、私の中のこういう意識に関係がある。

うまく言えないが、だいたい、お二人をひとつにまとめて話すのからして乱暴だが、何となく、こういう方たちの書いたものを読んだとき、かなり多くの人が、ぼんやりと、漠然と、感覚的に、「この人は非常に頭がよくてセンスがあって状況や人を鋭く正確に分析する」ということを、理屈ではなく感覚として感じてしまうのではないかと思う。それは、多分まちがってはいないが、結論はそうでも、その結論に至る過程はかなり大ざっぱで、それはお二人の意図や希望とは、もしかしたら非常にまったく反対なのではあるまいか。

更に、そして言うならば、そこで多くの人が、「この人は自分と同意見だ」とか「この人に自分は選ばれている」と感じているのではないだろうか。
お二人に限らず、いや、もしかしたら、最近の妙に高飛車に物を言う政治家たちもそうだが(いっしょにしたら失礼だが)、こういう風に、すぐれた人や強気な人が、めりはりつけた発言をすると、多くの人がなぜか、「この人は世の中や周囲の人間をしっかり、評価し仕分けする」と感じ(それはまちがいではないだろう)、次の瞬間と言っていいほど、すぐ引き続いて、「私はこの人に選ばれる側にいる」と思いこむ気がする。「そうでなければ大変だ」「そうでありたい、そうでなければならない」という危機感や願望がそうなるパワーを生むのかもしれない。

◎いずれまた、ゆっくり書くが、私がこのところずっとの構造改革とか勝ち組負け組とか弱肉強食とか適者生存とか、そういう考え方を聞くたびに、一番いらいらかりかりするのは、勝ちぬいたり生き残ったりトップになれたりするわけもない根性無しのアホに限って、なだれを打って、こういう考え方に飛びついて染まって、「そうだ、自分はもっと認められていいのに損をしている、正当に評価されたらもっと高い地位にのぼれる」と、本当に何を根拠にと思うぐらい、あっさり信じ込むことだ。

多分、そう言わないとそう思わないと、切り捨てられる方になってしまうというあせりが、そういう気分を生むのかもしれないが、そういう気分になること自体がすでに負け犬以外の何物でもない。
私なんか、自分が人よりちょっとでも優れていたり恵まれていたりしたら、損をするのはあたりまえと思っているから、切り捨てられる方に自分がなるのなんか、別にちっともかまわない。
むしろ私がしんからうんざりするのは、勝てるわけもないし、上に立てるわけもない弱虫のアホが、適者生存の法則に身をまかせれば自分は得をすると思いこんだ結果、前以上にひどい状態にころがり落ちて、そこでまた結局私に迷惑をかけるのだろうなということを予測して、怒り狂ってしまうのだ。

いやもう実に、考えれば考えるほど、私は弱者を愛していない。

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カツジ猫