待機中。
◇もうひとつ、これは主として組織に関することの方ですが、私が「やっぱりこれはもう無理かなあ。学問研究と政治活動もどきとの二足のわらじは」と感じはじめたのは、「常時待機中」が要求される事態が増えて来たからです。
ソフトバンクホークスの城所選手は、打撃はいまいちですが守備が完璧なので、ここぞという時には使われるらしく(そして期待にこたえるらしく)、「城所待機中」というTシャツかなんか作ってるそうです。
そもそも私は今年初めて球場で野球観戦して、一番感じたのは、あの広い外野で何も来ない時はいつまでも待っていて、球が飛んできたら絶対ミスはできないという、その集中力をどうやって外野手は維持してるんだろうという感嘆だったのですが、それと同じように、「待機中」と宣言できるのはすごいことです。
そう言えば石川啄木が社会主義者の同志の墓碑銘として書いた詩に、その同志は会議のときも無口で、でもいつも笑って「同志よ、我の無言をとがめたまうな、我は議論することあたわず、されど我には、いつにても起つことを得る準備あり」と言っていた、とかいう一節がありました。中学か高校のころ、叔父の残した本で読んで、その部分を何となく、ずっと覚えてたんですが、これも「待機中」を約束できてた人なのですね。
◇大学に勤務していたころ、いろんな委員会があって、中には激務のものもあり、その一つのメンバーだった二人がめっちゃ険悪になり、一人は夜に電話で私に「裁判に訴えてやろうかと思うが、手続きを知らないか」とまで言って来ました。
国文学者の私にそんな質問するぐらいですから、本気じゃなかったのでしょうが、そのくらい激怒していたということです。
言っちゃ何だが有能さも過激さも含めて、どっちもどっちの人たちだったので、私はどちらにもくみしなかったけど、自分の体験からも漠然とわかったのは、こういう委員会や何やの仕事って、もう常時朝から晩まで、そのことばかり考えて、際限なく取り組んで、声をかけたらすぐ対応して集合する、滅私奉公、家族のような一体化を求めるタイプと、必要な仕事を割り振って采配して、各自がノルマをちゃちゃっと果たし、それを持ち寄って限られた時間と労力を集中的に使って、あとは無罪放免を求めるタイプと、だいたい両方いるのです。二人はそれぞれそのタイプで、仕事の内容よりもやり方で、どんどん敵対したのではないかと思う。ちなみに私は後者でした。
◇どちらにも長所と短所はあります。共産党なんて(多分公明党も)とことん前者だろうと思います。それでも最近は前ほどではない気がするし、少なくとも九条の会では私は代表ではあったけれど、徹底的にできることしかしなかったし、自分が何をしなければならないかを、いつもきっちり聞いて、それをこなしていました。そして、他の団体や組織との話し合いのときに、あまり一枚岩のように同じ意見でかたまらず、ちがう意見も共存するようにしていました。つまり代表の立場でありながら、一部分しか関わらない異分子という存在であろうとして来ました。
よくまあそれでやって来られたと、自分にも他のメンバーにも感心するのですが(笑)、結局ここでも私は自分の流儀を押し通した暴君だったかもしれません。とにかく、その「限られた時間で、できるだけの仕事をする」かたちで何とか私はやって来られたと思います。
◇しかし、活動が広がり、関連する組織が増えると、まさに私が一番弱い「常時待機中」を求められる状態が、九条の会以外で増えて来ました。とことん私が参ったのは、会議や非公式の集まりに随時招集がかかり、予定があると断ると「いつなら空いているか」と言われて、まあ、どうにかやりくりができないわけではないけれど、とにかく生活や意識の中心が、そういう活動を軸に回り出すのが、どうにもこうにも耐えがたかった。
何度か断ったり説明したりしている内に、皆もそれなりに理解して、九条の会と同様の、ノルマだけをこなす仕事というか、ほとんど名前だけで何もしないというかをさせてくれるようになった気がするけど、まだ先のことはわからないし、せっかちな私は、すでにそこまでで疲れてしまったようです。
◇あらためて、今さらながら、自分の研究者としての人生をふり返ると、ささやかながら私が成果をあげ、業績を積んでこられたのは、それこそ、学問研究に対して「常時待機中」でずっといられたからなのです。独身で家族もほったらかしで、知識や資料にいつも全面的に門戸を開いて、それを最優先に生きて来たからこそ、人のできない仕事もできた。それを支えてくれた叔母と母の介護は当然の義務だと思ったけれど、それももう終わりかけた今(田舎の家や荷物の整理など、後片づけはまだ続いてる)、やはり私に必要なのは、そういう体制(学問研究にすべての意識を集中し、いつでも対応できるよう常時門戸を開きっぱなしで毎日を生きる)でしかありません。そこでしか、そういう風にしか、私は世界にも社会にも人類にも未来にも、本当に役に立つ仕事はできない。
◇でもこれは、もしかしたら普遍的な課題につながるのかもしれない。
若い人や多くの人が政治や社会や憲法に無関心と言いますが、私もこのところちょっと、自分の仕事に専念しようとしたら、もう世の中のことなんか、まったく耳にも頭にも入って来ない。そして、そういう人間が情報を得て、関心を持って、何らかの行動をしようと思っても、できることがまったくと言っていいほど見えて来ない。
忙しい人、滅私奉公ができないし、する気もない人、そういう人にできることを、そういう人に訴える方法やことばを、私たちは大急ぎで探して、作る必要があります。「常時待機してなくていい活動」の形態を。