忌野清志郎と峠三吉。
◇昨日の「平和のつどい」は、宗像ユリックスのハーモニーホールがわりと埋まっていて、去年や一昨年よりはずっと参加者が多かったようで、うれしかったです。「九条の会」の人たちの顔もいくつか見かけました。
布芝居もコーラスも、いつものように水準が高くて楽しめたし、講演は今年初めて、被爆体験者ではなく被爆二世の方が話をされました。「消極的平和主義者です」と最初におっしゃったその講演者の岸本さんは、父と叔母が被爆したとおっしゃって、私より5歳ほど若い方です。戦後はずっと、高校の先生として平和運動を行ってきた方で、消極的どころではない(笑)平和主義者ですが、被爆者の思いや、被爆教師として活躍した方々の紹介など、貴重な話を多く語って下さいました。
充実しすぎた内容だし、いわゆる型にはまってぼんやり聞いて感動できる演説とはちがって、むしろ雑然とした地味な語り口ですが、その中に、新しい時代に向けて、被爆者の体験をどのように生かしていくのかという真剣な自問や工夫が感じられて、私は満足し感動しました。
◇とりとめないのですが、少し記憶に残ったことを。カッコ内は私が推測してわかりやすく補充した部分です。
「叔母は8月6日の朝、わずかなお金を郵便局に貯金に行って、いつもの出勤時間に乗る電車に乗らなかった。乗った同僚の男性は死んだ。
叔母は結婚も出産も恐れて原爆孤老として死んだ。私のようなのを孤老と言うのねと、自分で言っていた。」
「叔母は8月6日にはいつも仕事を休んで家にこもっていた。そういう被爆者は多い。当日になるとトラウマがよみがえる。友人の叔母(伯母?)はインテリだったが、8月6日にはいつも不安定になり、世界情勢や国内情勢に関する怒りや不満もあってか『あんたは、こんなことでいいんね。こんなことをしていていいんね』とあたり散らした。そのように突然怒り出す人が多い。」
「被爆に限らないが、人の苦しみは決して他人には理解できない。同じ体験をした人でさえ、その人の苦しみは理解できない。ただ、よりそって聞くしかない。」
「被爆二世がどうやって生きたということの中には、こういった家族や親族、親たちの世話をする、この人たちの健康を守るという仕事をしてきたという面が大きい。(そういう介護の負担も大きかった。)」
「今、日本では被爆者の補償に3000億の税金を使っている。私たちは、これをもっと使うべきだし、使えるシステムを作るべき、作っておくべきだったと考えている。
それは、戦争をすればどれだけの補償が必要になるか、戦争は高くつくということを(政府も国民も)知るべきだと思うからである。」
「叔母は平成6年に86歳で死んだ。父は昭和56年に64歳で死んだ。
父は被爆してすぐ市外に出て広島には行っていないので、二次被爆はないと叔母も自分も思っていた。しかし父の死後、父が建てた墓を見たら、知らない骨壺が二つあって驚いた。それは父が母と結婚する前につきあっていた女性とその弟のもので、父はその人たちをさがして何度も市内に入っていたのだ。」
「父は戦後は証券会社で成功した。自分はそんな父に反発してけんかもした。父が死んだあと、やがて母も亡くなり経済的な事情もあって東京の国立の教育大学に行った。学生運動もしていて、東京に行きたかった。そして教師になった。」
◇きれいごとだけではない、複雑でリアルな人間の人生が伝わって来ます。
本多勝一がカンボジアの虐殺を報道するのに、「定量分析」と「定性分析」ということばを使っていましたが、岸本さんの話にも、その両方がありました。圧倒的な数の事実。それによって示されるひとつひとつの、ちがった人生と運命。
続けます。
「広島の被爆教師の中から三人を紹介しよう。まず坪井直さん。86歳でお元気だ。宗像市民へのメッセージをとお願いしたら、ただの連帯のあいさつでよかったのに、長く熱く語られて、全部は紹介できない。」
ビデオレターの画面で坪井さんは「人の命は最も大切。ヨーロッパもアジアも、どこの人も、人の命は大切。何十万人も殺す核兵器は廃絶するしかない。テロも許せない。最近のツイッターでちょっと不愉快なことがあったからと相手を殺すのも許せない」と、とめどない熱意をこめて語り続けられました。
私はもう中年になってから、長崎の原爆資料館で、さまざまな写真や遺品を見たあと、くりかえし行われる原水爆実験の映像を放映しているコーナーで、絶望と無力感に押しひしがれて立てないまま、長いこと次々に現れるキノコ雲の画面を呆然と見ながら座りこんでいたことがあります。
坪井さんのような信念を持っておられる方にとって、この数十年間と現在は、どのようにつらく腹立たしく生きていくのがいやになったか、それでも変わらずこうやって生きて語る姿に、鬼気迫るほどの迫力を感じました。
ご本人は被爆後70日間意識がなく、敗戦の日も知らなかったのだそうです。
「二人目は石田明さん。2003年に75歳で亡くなられた。爆心地から0.7キロの電車内で被爆。何千ボルトの火で焼かれた感じだった。逃げる途中、土手で全身焼けただれながら乳をやるように赤ん坊を胸に抱きしめていた女性を見る。その後も『この子を助けて』と火の中から足をつかむ女性を見捨てて逃げるしかなかった。
生きる気力もなくした石田さんに、再び生きる決意をさせたのは、『新しい憲法』だった。」
「三人目は八谷丑雄(やたがいうしお)さん。2006年に73歳で亡くなられた。医者になるはずだったが原爆白内障で顕微鏡が見られず断念し、文学部に入りなおして教師になる。
八谷さんは動員学徒として、建物疎開の作業中に被爆した。たまたま建物の中で待機していた組だったから助かったが、戸外で作業していた友人たちは皆死んだ。」
「自分は教師として生徒への責任を考えるとき、この作業について考えずにはいられない。
建物疎開というのは、官公署や軍事施設、軍需工場を空襲から守るために、周辺の民家を破壊する作業だ。
この作業にかり出された動員学徒は8222人。うち5846人が、この作業中に死んでいる。
教師たちが子どもを犠牲にしたのだ。」
「それだけではない。原爆投下後も、国や市は、おそらく原爆の実体をすでに知っていながら、被爆者の看病のために、近隣の地域の学生を動員して被爆地に来させている。一番遠くでは島根県の益田の女学生が動員されている。」
「藤野博久君という生徒の思い出を母親が書き残している。彼は星空を見て戦地の兄を思い、自分は医者になって、