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戦場にいるようだ

スマホにしてから何となく電源を切っていることが多くなり、ガラケーのころ以上に携帯電話を使わなくなった。どうしても必要なら留守電を入れるだろうと思って、まるで使っていないのだ。おかげで本当に静かで助かる。

それで気づかなかったのだが、昨日小学校時代の級友から電話が入っていて、少し前から脳梗塞か何かで倒れて入院していた、親友の一人が亡くなったそうだ。

今年一年さまざまな私にとって大切な人が、亡くなってもう二度と会えなくなった。喪中欠礼のはがきをもらう人の中にも、親とか祖父母とかより、配偶者とか兄弟姉妹とか中には子どもを亡くしたという知らせもあって、いよいよ自分の世代が送られる時代になりつつあるのだなと実感する。

あまり淋しいとか悲しいとか思わないのは、自分もその内そうなるだろうという予測があるからかもしれない。そのわりに、するべきことが、まだまだ残っているのも、心から悲しみに身をゆだねられない余裕のなさだろう。

何より自分の老後のイメージがまだ作れていない。最後まであがくのか、どこかで何もかも投げ出すのか、それさえもまだ決められない。

母が老人ホームにいた最後のころ、ときどき「もう死ぬことにしようかね」と言うことがあって、私は何を言いたいのか訴えたいのかわからずに、「まあそう言わずにもうちょっと」とか応じていた。「私が淋しいしさ」と言ったこともある。
もしかしたら、母はあんなとき、単純にもうすることがなくなって退屈していたのかもしれないと思う。特に病気ではなかったから、闘病さえもしていなかった。それなりに快い毎日だったかもしれないが、めざすことも戦うこともなくなって、世の中をながめていても、面白くなかったのかもしれない。

私は母ほど生命力も好奇心もない。戦闘意欲も実はない。だから何となく、すでにもう、世の中のいろんなことに携わるのに、少し嫌気がさしている。学者、芸術家、政治家、その他、死ぬまでいろいろ自分の気に入ることに打ち込んだり、人に影響をあたえようとしたりする人を見ていると、ええかげんに若い者にまかせてひっこんでおけばいいのにと思う。ひっこめなくなっているのなら、後進を育てていなかった自業自得やんと思う。むなかた九条の会の代表者の後任を、まだ見つけられていない私がこんなこと言ってもブーメランだが。

好きだった人や動物が死んで行くのは残念だが、あとに残して心配しながら死ぬよりはよっぽど気が楽だと思うし、日本政府だか日本社会だかがこんな風で、どんな災害や犯罪にまきこまれても自己責任とやらで面倒見てくれそうにないんだから、一寸先は闇と思って生きるしかない。本当に、戦場にいるのと変わらない。しかもだんだん最前線が近くなって、弾があたりに飛び始めている。

そんな中で、最低しておく仕事は、いくつかは決めている。途中で終わっても、それはそれでしかたがないと思っている。誇大妄想と言われても、死ぬまでに何かのまちがいで、ものすごく有名になったらどうしようと考えないわけでもない。そうなりたいなというのでもなく、そうなったら、きっといろいろ注目されて、批判や攻撃もされて、それに応ずる体力や時間は残ってないから困るなとは思う。

ジャン・バルジャンが黒玉の製造か何かに成功して、マドレーヌ市長にならなかったら、ジャベールにつけ回されることもなかったわけで、あそこまで成功しないでいたら、目立たないまま平穏で幸福な一生も送れただろうなと最近ときどき考える。その代わりコゼットにも会えなかっただろうけれど、今の私は、別にもうコゼットとかに会わなくてもいいかなあと思ったりもしてしまうのだ。

問題はそこなのよね。早めに退屈するのもいやだが、最後まで壮絶な人生とやらを送って充実してくたびれはてて死にたくもない。
病気になろうと貧乏になろうと、それはそれでしかたがない。そういう風にどうなったとしても、そこでどういう雰囲気で、彩りで、生きて行くか、その気分を、私は今まだ決められない。何かありそうなものなのにね。

この期に及んで私がいつも、最終的に落ち着いて、自信にも慰めにもするのは、国文学の研究にしろ、小説の創作にしろ、社会的な活動にしろ、どんなにお粗末で不十分でも、私にしか絶対にできない、他人の頭と手では絶対に作れない、ある種の分野か手法か意識か、そういうものを私が持っているということだ。絶対に他の人にはできない、代わりの効かない論理か発想か、何かそういうものを。

それが何かは私にもうまく説明できないし、私が死んだら、その大半は失われる。そうならないように、もっと誰にもわかりやすい、きちんとしたかたちで、それを残して行くことは私の義務で、責任ではある。だが、それが中途半端に終わり、何だか妙な小説や不完全な論文のかたちでしか残らなくても、別に私は人類や未来に、申し訳ないとか気の毒とかは感じない。たぶん、その価値は誰にもわからないままだろうから、惜しんだり残念がったりする人もいないだろう。渡せないままになるかもしれない、秘密のプレゼントを、くすくす笑って荷造りしてリボンをかけながら、私は今を生きている。

それにしたって、残された時間は少ない。敵もいるのはわかっているが、よくは見えない。恐いが、恐がっていてもしかたない。急ぐしかない。いろいろと。

一年間本当に、いろいろお世話になりました。
皆さま、どうぞ、よいお年を。

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カツジ猫