支配されたくない精神
今日は一日走り回って、へたへたに疲れたのだが、昨日ついつい誘惑に負けて、押し入れの中から洋服をすべてひきずり出して、全貌を把握しようとしたものだから、服に埋もれて片づけるまでは寝られない。しかも明日は朝が早いし、今夜じゅうにしあげたい原稿もあると来ている。年末にはスマホやら新しいテレビやら買い物も多くて出費がかさみ貯金も減って、老後を思うと不安で口から心臓が飛び出しそうだ。しかし、そんなこと心配するまでもなく、はやばやと病気か事故で死ぬかもしれないと思うと、それもそれでまた不安である。
不安と言えば、猫のカツジもグレイスも、私が長く家を空けると不安なのか退屈なのか腹が立つのか、やたらとドライフードを食べまくるようで、あげくの果てにきっと吐いている。幸いカツジは一番あとが片づけやすい、フローリングの床に吐くことが多いので助かるし、ベッドによく吐くグレイスも私は用心して、小さく切った毛布をしきつめてあるので、すぐに洗って取り替えられる。しかし、とにかくこれじゃ泊りがけで旅行にも行けない。昔の猫たちは、餌を器に山盛りにしておけば、二三日は平気でお留守番していたのになあ。甘やかしすぎたかな。
今夜片づけたい仕事の一つは年末の講演の原稿だが、まあ何とか最後までの構想はできた気がするので、ほっとしている。そのネタのひとつにするために、「スター・ウォーズ」のノベライズの文庫本を注文して、とっくに届いているのだが、まだ封も切っていない。そうこうしている内に、どこに行ったかわからなくなった。ぎゃあ。まあ、メインの話ってわけでもないから、ざっと目を通しておけば大丈夫なのだけれど。
進まない理由のひとつは、「若草物語」のオルコットに象徴的な、目上が目下を愛情を持って厳しく教育する場面の、おぞましさと気味悪さと、その一方でポルノを見ているような快感とに、背筋がぞくぞくして考察も執筆も長続きしないからだ。最近こういう場面は現実にも虚構の作品にもまったく少なくなっているが、そのことも、ありがたいのかものたりないのか、自分でもよくわからない。
私が友人たちと書いた「鳩時計文庫」の小説の数々は、甘ったるくて幼稚で未熟だが、あらためて思い返すと、大人と子どもであれ、男と女であれ、この手の「教育」というものに私が命をかけてでも抵抗しようと決意していたことがよくわかる。騎士物語と革命文学を合体させたような「青い地平線」にしても、スポーツものをおちょくったような「A高野球部日誌」にしても、すべて、その底流にある絶叫は、正義にでも力にでも絶対に支配はされないということにつきる。
コミック「封神演義」その他を読んだときも思ったが、作者藤崎竜のすべての作品にも、それと共通する精神がある。それは今では若者たちを中心にして、定着しつつあるのだろうか。その代わりに犠牲になったもの、払わなければならなかった代償は何かあるのだろうか。私たちにも、若者にも。