映画「アレクサンドリア」感想(つい)つづき。
キャラママさん。
ネットをのぞいていたら、ロバート・キャンベルさんが、キャラママさんの「江戸の紀行文」をほめた新聞の書評を「すごくいい表現」とほめていた人がいて、うわあ、キャンベルさんはもう、人をほめた文章までそのほめた相手そっちのけでほめられてしまうスターなのかと、笑ったり感心したりしてたのですけど、そのときついでに、「週刊エコノミスト」にも「江戸の紀行文」にふれている記事があるみたいなのを見つけて、今日コンビニで買ってみたら、今谷明という立派な先生が、「(読んで)思わず膝を打った」とか、とてもほめておられましたよ。
売り上げがのびたのは、この記事の影響もあるのかもです(笑)。
せっかく買ったからと、「週刊エコノミスト」の他の記事にも目を通してみたら、まるでいつも読むのとちがう分野や発想ばっかりで、なかなかおもしろかった。かくして文化は交流するのかしらん。
だけど、この本の映画欄が紹介してたのは、なな何と「アレクサンドリア」。ほーっと、思わず見入ってしまった。
しかも、これもネットで見つけたのだけど、「アレクサンドリア」のチラシには「テルマエ・ロマエ」の作者ヤマザキマリさんが登場して、なんかルシアス(「テルマエ・ロマエ」の主人公)がヒュパティアとしゃべったりしてるらしい。私も映画館でチラシはさがしたのだけど、とーぜんそんなものなかったんだよ。
なんか、東京でも2館しかやってないらしいもんなー、この映画。もっと増えたらいいのにな。
まーいろいろと、違和感や不満はあるのですけどね。あの映画のヒュパティアには。そりゃ太陽の軌道の解明とかに熱中してるのだから、俗事にかかわるヒマはないんだろうけど、そのわりにいろいろ政治にかかわるし、そんならそうで、もうちょっとワル知恵もはたらかさんかいと思うほど無防備だし、学者ってこんなもんかと思われてるとしたら、こっちもそういう仕事のはしくれだから、ちょっと釈然とせんよなー。
弟子たちとの交流や関係だって、なんかそのへんの上司と部下みたいだし、学問に身をささげた師と弟子の関係らしい何かが決定的に足りないというか、ないというか。あんなもんか?と思うけど、あんな時代の女性の学者と男性の教え子の関係なんか、想像もしようがないといえ、それでもあんなもんではなかろう。
それとも、現代の大学の女性研究者と教え子の関係を、それなりに投影してみたら、ああなったんだろうか。まさかね。
最後の方じゃ私はじりじりして、ええい、あんたも学者で教師なら、こんななっさけない教え子たち、みんな手玉にとって利用して、とっとと国外逃亡せんかいと思ってたもんなー。「もう疲れた」って気分になったのかもしれんけど、ていうか、それが唯一の解釈だろうけど、そんなに疲れるほどあんたなんかしたか? 私も含めて私の知ってる教師や研究者は、もっとしたたかで、狡猾で、パワーがあって、粘り強いぞ。
しょせん、このてーどの女だから、あんな最期もしゃーないか、とみょーに納得させられそうになるのが恐いじゃないのさ。恋でも学問でも政治でも、この映画のヒュパティアは悪い意味で等身大で、すごみも魔力も感じられない、ただのかわいそうな被害者だ。
観客に悪い感じを与えないですまそうとするから、こういうことにもなるんだよなー。私は多分ポール・スコフィールドの名演技もあるんだろうけど(ドラマでチャールトン・ヘストンがやった時は、どってことなかったし)トマス・モアの後半生を描いた映画「わが命つきるとも」が、もう毛穴のすべてにしみいるぐらい、昔も今も大好きなのだが、若い方の映画サイトで、「この主人公は頑固で古風であまり同情できない」という感想を読んだとき、びっくりするとともに、目からウロコが落ちた(自分が感動し共感してた理由のひとつに、初めて気がついたって意味で)。
そういう欠点、弱点、頑迷さが、そのまま高貴な生き方につながるところに、人間の不思議さがあり、ふるえるほどの感動があるのになあ。そういう人だからこそ、敵も多くて孤立して、勝利をおさめられなくて、それでも何かを守りとおした、という、いきさつが、もう、どうしようもなく、自然で痛切で、切ないのに。
ヒュパティアを怪物ではなく、かわいい女に限りなく近づけたことで、この映画は結果として彼女を卑小にしてしまっている。まあ、大勢の人にうけいれてもらえるには、こうしかしかたがないのかもしれないけど、それって私は別に知り合いじゃないけどさ、いっちばんヒュパティアの生き方とは遠い姿勢なんじゃあるまいか。