映画「ゲド戦記」感想(その8)
これはもう、ちょっとおまけの、つけくわえです。メインの感想は(その4)から(その7)を、ごらん下さい。8月29日から31日にかけて書いてますので。
この映画の公式ホームページをさがしたら、映像も見られました。しばらく待っていたら、ホートタウンの町の様子も出てきます。私がしつっこく書いた、「人の悪意も狂気も感じられず、頽廃でも爛熟でもなく、世紀末的な華麗さもなく、つつましくて優しくて健全なのに、なお、決定的に、どこかおかしくて、静かに病んで、衰微し、朽ち果てつつある」感じというのが、おわかりいただけないでしょうか? 嫌悪感は感じないのに、まったく希望が見えてこない。
何がそうさせるのでしょう。さしあたり、この画面だと、左手前の黄色かな?
その前の画面の、青空のタカ?も、どうってことない、普通のきれいな画像なのに、何か見ていて不安になる。私が変なのかな。でも、これ見て、晴れ晴れして、やる気になるって人、いますか?
つくづくすごいのが、この監督の次作の「コクリコ坂から」では、こんな不安感も不協和音も、まったく、ちらとも出ないんですよ。だから、この「健全なのに病気」な雰囲気は、決してこの監督の本質じゃなく、どうしてもにじみ出てしまう、この人らしさじゃないんですね。信じられない。すごすぎる。
「コクリコ坂から」の感想は、また長々と前に書いてますが(7月28日と8月6日)、この監督は、あの映画では、日本がよかれあしかれ楽天的で前向きで、はた迷惑なくらい誰もがパワフルだった時代というのを、これまた、作り物でも借りものでもない自然で素直な映像で、画面のすみからすみまでみなぎる生命力、ほんとにもう、海の底にも道の底にも流れていそうなマグマも顔負けの底力として、ありありと描き出していました。あの時代を知っている私にして、「ああ、あの時代だ、たしかにそうだ」と思ったもんな。
それも、その時代を生きて知ってる人の、過剰で押しつけがましい「どや、こうやぞ」みたいなウソっぽさがなく、逆に直接知らない人がよく理解して描いてるような、清々しいリアルさがあった。「老人の演技は、ほんとの老人はできない。若者でなくちゃ演じられない」ってことばが、この際あてはまるかは知らんけど。
この二作は、あわせ鏡のように、現代と、少し前の過去を描いて、日本のみならず世界の、ふたつの時代を対照的に見せてくれます。並べて見ると、現代が失ったもの、得たものが、しみ入るように実感できる。
そこに、仮に、監督の、親の世代へのいろんな思いがあるにせよ(あってもなくても別にどうでもいいんですが、映画としては)、それを気持ちの軸として、こういう作品を連続して作ったという点では、どういうか、この監督の映画の制作のしかたっていうのも、作品のそれぞれと同様に、ちょっといやらしいほど(ほめてます)、ムダがないなあ。ほんとに、効率的に、高密度に、エネルギーを使う人だと思う。