映画「ゲド戦記」感想(その7)。
私は病的な、異常な芸術は嫌いではないが、そう好きでもない。だが、このホートタウンをはじめとした、この世界の、何だか誰もが悪くないのに、皆がつつましくまっとうに生きているのに、どうしようもなく、明るく普通にじわじわ病んで衰え、静かに腐っていく、この感覚が安全でないとわかっていてなお、快かったし、好きだった。何べん見ても、安心してうっとり自分をまかせられた。この映画の世界全体が、どこかに傾斜し、健全で正しいままにどんどん病んで狂っていくこの世界が、すべてたまらなく心地よかった。
もう、だんだんそうなると何が何だかわからなくなり、最初見たときからそうだったが、テナーの家のスープから、ゲドたちが作る畑の野菜の芽まで、すべてがいかがわしく病的に気味悪く思えてきて、でもそれが心地よくて、もう我ながらどうしようかと思った(笑)。
アレンもテルーもゲドもテナーも、皆それぞれにまっとうで暖かく健全なのに、それでも否応なしにかしいで、ゆらいで行く世界。それが、どの場面でも、ひしひしと身にしみた。恐くて不快なはずなのに、そうでもないのが、また恐ろしかった。
この映画が表現したのは、ただもう、そういう世界だったのではないのか。それを、これほど十二分に成功させているだけで、もう筋も理屈もどうでもいいと思わせるほど、私は濃密な得がたい体験を、この映画でしたと思っている。
それだけで、もう十分なのだが、しいて社会的効用みたいなものをつけ加えるなら、実際に見ても感じてもいる、私たちをとりまく現実を、映像によって抽出し精選して、いやっというほど味あわせてくれたというだけでも、多分きっと、それなりの意味は大いにあるだろう。
それもきっと確信犯かもしれないが、この映画の唯一の弱点は、これだけの絶望的な世界のひずみを生んだのが、あの悪役ということだ。別に普通の悪役としては、十分不気味な悪役なのだが、あれだけ圧倒的な不均衡を作り出した元凶が、こんな普通の悪役のはずがないとつい思ってしまう。
実際、私は終始息がつまるような狂って病んだ世界の映像に圧倒されていた時に、あの悪役が登場して、ああやっと普通のいつもながらのおなじみの悪役に会えたと、しんそこなつかしくて、ほっと気がゆるんだぐらいだった(笑)。
まあ多分それも、お約束の場面で手抜きなのだろう。最後の決戦もゲドやアレンの勝利も、監督はわりとどうでもいいのだろう。そうしないと話が終らないから、やっているだけで。
何から何まで気持ちが悪い、そして美しい映画。小さい悪はあるにしろ、基本的には皆がいい人でまっとうで、しかも世界が否応なく着実に、ほほえみながら衰弱し崩壊していく、恐ろしいのに、やさしく暖かい映画。原因不明の悲しさと恐怖、そして、それに身をまかせたくなる誘惑。絶対に認めたくないし、私はそういう言い方をこれまで一度もしたことはないが(言えば敗北と思っていたから)、こういったすべての何もかもが、私たちをとりまく現実と現在に、何と似ていることだろう。
「ゲド戦記」は、それをすべて、説明抜きの映像で見せつけた、恐ろしいほど完成された作品だ。これを見て、何を学ぶか、何を得るか、何を決意するのかは、それぞれの人にまかされる。
いずれは私も、そういうことを何かしよう。だが、さしあたりは、この映画の優しく暖かいのに、限りなく危険な魅力に、身をまかせることが、ただもう、ひたすら快い。