映画「セックス・アンド・ザ・シティ2」。
やっとこさ見てきました。けっこう厳しい批評もあるので、あんまり期待してなかったけど、案外面白かったけどなあ。ライザ・ミネリが今もまだ、あんなに元気ということがわかっただけでも、もうもとはとった気がするし。
この前、この映画の「1」をテレビでやってるのを見てたら、過激なセックスにまつわる場面がみーんなカットされていて笑ったんですけど、それがなくてもそれなりに、きちんとした映画で、あのオーソドックスな展開の中に、ばーんと性描写が登場して、特に浮かずにとけこんでるのも大したもんだと、あらためて思ったもんです。
今回の「2」も、数回えっと言いたくなるぐらい露骨なベッドシーンがあるけど、いやらしくもなく(まあサマンサだからってのもあるが)きれいでダイナミック?で、他の部分と落差があるようでないようで、ともかく全然不愉快ではなかった。
ドラマでもときどき旅行はあったけど、映画の方は「1」も「2」も楽しいツアーが目を楽しませるようにできていて、特に今回は中東のホテルの豪華さを満喫しつつ(あ、ホテルの支配人は「グラディエーター」の奴隷商人、「ハムナプトラ」の案内人だった)、この地の女性に対する問題意識などを、かるーいノリだがきちんと描いている。
うまくまとめていて、そつはないし、不快な点がないのは助かるんだけど、ただキャリーとビッグの夫婦の関係、シャーロットの子育て、ミランダの職場での苦労、などなど、まるで10年20年前と同じような内容で、こんなにも女性の(男性も)生き方は遅々たる歩みでしか変化しないのか、そもそも変化したのだろうかと、かすかに暗澹とした。
どの人物が立ち向かい、抱えて苦悩する問題も、みな、あまりに古めかしい。現実もこんなもんなんだろうか。時代にも国にも関係なく普遍的な問題もあるから、古いも新しいもなく、これが普通なのかもしれないが。
それぞれ、がんばっていた主人公たちが、こんなに年とっても、それなりの人生を築き上げても、まだ社会はちっとも変わってないようで、それが何だかせつない共感も生むのだが。
最近、年金暮らしで金がない金がないと二言目にはぼやくキャラママが、頭にきたと言っているのは、「公務員は年金どっさりでしょう」という神話で、これは最近では彼女、「こんだけですよ」と額を言ってやることにしてるそうで、でもそうすると一瞬えっと驚いた人たちが、すぐにたちなおって「でもお一人だから。それで家族を養ってる人もいるんですから」と言うことだそうで、「首しめたろかと思うぐらい腹立つ」とキャラママはののしってました。
家族がいようと一人だろうと、夫婦でかせいでようと親がいようと、そんな事情はそれぞれ千差万別で、家族を養ってるかどうかだけを基準に大変かどうかを決めるのはバカだ。第一、自分(キャラママ)もちゃんと家族はいるのに、夫婦以外は家族とみなさない、その目の玉の構造が信じられない。そもそも、誰もがそれぞれの生き方を選択し、捨てるものを捨て、選ぶものを選んで人生を築いてきた、その人生が今、経済的に苦しい状況にあるとぼやいている時に、まったくちがう人生を選んで築いてきた人を例にあげて、そっちがちゃんとやってるからあんたもやれるはずというのは、神経がどっか麻痺してんじゃねえか。というのが彼女の怒りです。
「これまでの人生で、どれだけ、結婚してない、子どもがいない、ということで、いやな思いさせられ、実際に不利な条件ものまされてきたかわからない。それでも、子育てしてる人や結婚してる人には、またそれなりの大変さがあると思ったし、絶対にそういう人を憎んだり反感持ったり対立したりはしないようにしようとしてきた。頭や心の中でさえもそれだけはしまい、そうはさせられてはならないと誓いつづけてきた。やっともう、それも終わりかと思いはじめていた、この今になって、また夫婦と子どもという存在と、まったく無意味に比較され、不快な思いをさせられることがあろうとはね。男や妻や夫婦や結婚や子育てを敵だと見てしまいたくないと、これだけ努力し、その人たちも生きやすい職場や社会を作ろうとしてきたのに、最後の最後でまだこれか」と、飲むたびに彼女はくだを巻いています。
それを聞いていても思うのは、世の中だか人の頭の中だかは、まるで変わってないということで、それは決して正しいから変わらないのじゃなく、今ここでやけになって、手をゆるめてはいけないと思うのですが。
そんなことを重ねて見ていると、「セックス・アンド・ザ・シティ」の陽気な四人が、とてもけなげで、正直で懸命ではかなく見えて、抱きしめたくなってしまいそうです。