映画「ハリー・ポッターと死の秘宝(Part1)」感想4(と映画「サンチャゴに雨が降る」について)
アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンが共演した、今でもよく話題にのぼる「さらば友よ」って映画がある。その中で駐車場を逃げ回るブロンソンを、どすんとぶつかってつかまえるのが、もしゃもしゃ髪の顔の四角い、がっちりしたメルチス刑事で、彼は開口一番ブロンソンに「おれは刑事(あ、警部だっけなー)のメルチスだ。剃刀を出せ」とか言う。
ブロンソンはいつも剃刀を隠し持ってて、いざという時それを使う(人を切ったりはしなかったけど)。で、いっしょに映画をみた友人と私は「なんでカミソリ持ってたってわかったんだろーねー」などと笑いながら、二人でメルチス刑事のファンになった。
そのメルチス刑事が「サンチャゴに雨が降る」に出てきた時はうれしかった。たしか、政府の高官か、労働組合の人だったと思う。労働組合の人はもっとおじさんのやっぱり名優っぽい人だったような気がするから、やっぱりメルチスさんは政府関係者だったかな。
彼が死ぬ場面はたしかなかったと思う。労働組合のおじさんの方は多分、アジェンデ政権を支持していたっていうだけで銃殺されたんだったけど。
巨大な軍事力を持っている組織が、その気になって国を制圧しようとしたら、どんなことになるか、細かくリアルに淡々と、むしろおしゃれにスマートなぐらいにスタイリッシュに、あの映画は描いていた。記憶にのこる場面のひとつは、軍の本部で、指導部か指揮官がひとりひとりの兵士の面接を行っている場面だ。若い兵士の一人が連れてこられて椅子に座る。いくつかやりとりがある間に、面接官の前に開かれたリストをそばの軍人がそっと指す。面接されている兵士(私は彼の若者らしい率直な顔を今でもぼんやり覚えている)の名の横にチェックがあって、彼はアジェンデ支持派か左翼か、とにかく軍事政権に従いそうにないことが示されている。さりげなく、すぐに面接は終わって、兵士は中庭につれて行かれて銃殺される。
軍事クーデターが起これば、まず軍の内部から非協力分子は粛清される。当然のことだが、それをまざまざと見せられた気がした。
抵抗する学生や市民はサッカー競技場に集められ、反抗の意志を示せば裁判も投獄もなく、その場で殺される。
一方で、ホテルに閉じ込められて外出禁止の外国人ジャーナリストの目で、そこのロビーで狂喜してシャンパンか何かで乾杯してる、ブルジョアの特権階級らしい人々の姿も映される。一切何の解説もなく、批判もなく。
その外国人ジャーナリストも鋭い感じのいい俳優で、彼がホテルの外の銃声にぱっとふりむくしぐさなんかも、とてもふつうにカッコよかった。
ほんとに何かもうすべてが、おしゃれでエッジー(海外ドラマ「ランウェイ」風に言うと。笑)な映画だったのよ。
この映画のクライマックスは、もちろんアジェンデ大統領その人が、飛行機で国外退去するのを拒絶して、側近の人たちとともに銃を持って官邸にに立てこもり、押し寄せる戦車と応戦する場面です。最後に官邸に突入した兵士たちが、階上の部屋にかけあがると、武装した大統領たちが上の階の階段から下りてくる。催涙ガスをふせぐための布で顔をおおって、それぞれが銃をかまえて。そして次々に皆撃ち殺されて折り重なって階段に倒れ、血が滝のように階段を流れ落ちてゆく。そこを兵士がかけ上がってゆく。
暴力革命ではなく選挙で選ばれた大統領とその閣僚が、暴力で政権を奪われることを許さないで、武器をとって戦うというあの精神と画面とは印象的でした。政治家がこのようなかたちで自分の理念を貫くことを、今の日本で想像するのは難しいのですが、私は自分自身の発言や行動や身の処し方についても、あの場面を忘れたことはありません。どんなに権威があり安定しているように見えても、自分がせいいっぱいに良心的でも正義でも、いつそれが少数派になり敗北者になり追われる身になり、孤立し攻撃され滅びるか。それも古代でも中世でもなく、この文明社会で、現代で。それは予測がつきません。
平和や安定は、特に子どもや若い人たちのためには絶対に、少しでも長く守らなければならないと思う。それでも、それが崩壊し変質する危険も、覚悟していなければ、いざという時対処できない。
「ハリー・ポッター」の映画を見ていると、しばしばそれを思い出します。安定した世界とルールの中で行われていた競争や対立や賞罰が、いつ、それらのすべてが崩壊した無秩序もしくはまちがった秩序の中に投げ出されるか。その時に、残された何をよりどころに、何を守って戦えばいいのか。小説と映画が一貫して訴えているのは、そのことにさえ思えます。
ええと、多分一応これで終わりです。あ、ちなみにピノチェト政権はその後崩壊し、チリをはじめとした南米諸国は今じゃまったくアメリカの傘の外にいて、独自の道を歩んでいます。