映画「塀の中のジュリアス・シーザー」感想(3、これでおしまい)。
さらに、つづきます。
◇私ははじめに言ったように、これがイタリア映画ってことも知らずに見はじめて、冒頭の部分が終わって、「六ヶ月後」の字幕以後、最初にはじまるオーディション場面あたりで、やれ殺人で無期懲役だのマフィア関連の罪で何十年だの、強盗だの詐欺だのって、紹介の字幕が出る囚人たちのつらがまえや、演技のみごとさに、そうかー、犯罪おかすってのは、最高の演技力が要求されるわけだからなー、彼らが演技がうまいのもそりゃ当然か、などと思う一方で、しかし、これを演じる俳優は大変だなー、最初は素人の囚人として、次第に演技がうまくなる演技もしなきゃいかんのかとか、ぼんやり考えてました。
で、終わったあとでパンフレットを買おうとして、映画館の廊下に張ってあった、新聞の映画評などを見ていたら、なななんと、あれは皆、俳優ではなく、ほんとの正真正銘の殺人犯やマフィアや詐欺師、つまり囚人たちだったのだとわかって、ひょえーとこれまた仰天しました。
実際の刑務所で、囚人たちに毎年演劇をやらせて発表会をしてるのを、ほぼそのままに撮ったんだって。
出所後にほんとの俳優になった人が一人いて、その人だけは刑務所に戻ってきて特別出演したらしいけど。
◇でも、見ている時から私はそれがどうなんだろうとか、本物か俳優かどっちなんだろうとか、ほとんど気にならなかったんだよねー。どっちでも、そんなことどうでもよかった。
俳優だろうと囚人だろうと関係ない。彼らの姿を、その演技を、見ているだけで満足でした。
ここでCGのトラにこだわったら、ほんとに私もしつこいと思われるでしょうが、でも、あれはあれでいい映画だったんですよ。ただ、これとあれと、まるで反対の映画を見たという意味で、貴重な体験だったと思います。
私は芸術は作りものだと思っています。本物でなければならないとは、まったく考えていません。
なのに、なぜ、あのCGのトラさんに満足できなかったのか自分でもふしぎでたまりませんでした。
「塀の中のジュリアス・シーザー」の囚人たちが俳優であったとしても、感動が薄れたとは思いたくありません。
しかし、あの映画に登場した、シーザー、ブルータス、キャシャスらを演じた囚人たちは、おそらく彼らの人生や体験でしか築き上げられなかったような重厚さと深遠さを全身に漂わせていました。
あれに匹敵する演技をするためには、俳優もまた、それに劣らない体験や研鑽をする必要があるのでしょう。
◇人間のふしぎさを思います。パンフレットにずらりと並んだ囚人たちの顔は、決していやしくも醜くもなく異常さもありません。
俳優たちの写真と言われても何の疑いも抱かないでしょう。
かりに、そこに人間の卑小さや無気味さがうかがわれるとしても、それはもしかしたら、シーザーやキャシャスたちも持っていたものかもしれないとさえ思えてしまいます。
「レ・ミゼラブル」の映画で多くの人々が感じたのは、凶悪犯と言われ、娼婦と言われる最底辺の人々の持つ、人間としての高貴さでした。
犯罪をおかした囚人たちが、シーザーやブルータスやアントニーといった、偉大で高潔な人物を演ずるとき、それと似た混乱が見る者の心には生じます。
この映画は、そういう意味でも壮大で複雑な衝撃を見る者にぶつけて来るのです。
◇あ、そうだ。この映画、音楽も好きでした。冒頭で流れる澄んだ涼しげな音楽が、何だかこの映画の精神を象徴してるような感じで、すうっと話に引きこまれて行きました。