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映画「塀の中のジュリアス・シーザー」感想(2)。

つづけまーす。

◇つまりね、それさえ、じゃまなんですよ。「シェイクスピアを演じる囚人たち」だけを集中して見せたいから、「うまく行くのかな?」という期待やドキドキ感さえも「うるさい、うまく行ったんだよ、大成功だったんだよ、だからそういうことは気にせず見ろよ」って感じで排除しちゃうんですよ、監督は。

◇「ネタばれ」というのは、昔は映画でも小説でも、ミステリ以外は全然今みたいに厳しくなかった。老舗の映画雑誌「スクリーン」の批評は今でもときどきネタばれして、ネットで怒る人がいますが、もともと映画や小説の批評は全部ネタばれだったんですよ。でなきゃ、ほんとは批評なんてできない。
それが、今みたいになったのは、映画も小説も、すべての文学がいわばミステリ化しちゃったからなんで、つまり、筋や結末がわかったら、あとは見るべきものはないって話ばっかりになっちゃった。それはほんとは、けっこうつまんないことなんですけどねー。

だけど、この映画は結末がわかってても、途中の挿話が全部どうってことなくても、全画面、強烈に面白いんですよ。まあそりゃ、もともと、歌舞伎もシェイクスピアも結末わかって楽しむ人が大半だから、これは演劇の本質を見せてるって、そういう点でもすっごく面白い。

◇何がそんなに全画面面白いのかっていうと、そりゃもう、囚人たちの姿、顔かたち、表情、動き、声、そのすべてですよ。彼らの顔も手足もことばも、もうすべてが、ひたすら濃くて強烈で豊潤で、それが画面にぶちかまされてくるのが、もうこたえられない。本物が持つ、圧倒的な迫力と熱気。それを見ているだけで、まったく退屈しない。
私は人間の肉体と声が、あんなにも何かを語りかけてくる映像を久しぶりに見た気がします。

とてもふしぎな、ちょっとくらくらして酔ったような混乱を感じるのは、何も知らずに見た私でも何となく、あ、この人たちイタリア人でイタリア語しゃべってるんだなとだんだんわかって来るんですが、それがもう、それはそれはとてもとても「ジュリアス・シーザー」にふさわしいんです。だけど、もちろんシェイクスピアはあの劇を英語で書いてるわけでして、それも彼の時代考証ときた日にゃ、日本の歌舞伎なみにはちゃめちゃで、古代ローマの民衆が広場で帽子を投げ上げたり、修道院が登場したり、それってどう見てもイギリスやろうがって場面だらけなんですよ、シェイクスピアのローマ物って。

だけど、作者があの霧の深いしめっぽいロンドンを舞台に書いてるみたいな「ジュリアス・シーザー」が、まるで母国語みたいにイタリアの男たちのイタリアのことばで生き生きもりもり動き出すんですよ。奇跡のように、魔術のように。ことばの、人間の、文学のふしぎさ。その、めくるめくような映像と声音に、もう脳髄が翻弄されてしまう。

◇演ずる囚人たちは皆いい顔をしてますが、絵に描いたようなハンサムでもスタイルがいいのでもない。でも、筋トレやエクササイズしてきたえたんじゃない、微妙にたるんだりゆるんだりしてる身体が、逆にすごくリアルで魅力的なんです。
「グラディエーター」のラッセル・クロウは最近とみに肥ってますけど、昔すらっとしてた時でも、他の俳優とちがって、どこかやわらかなしなやかな身体つきで、ジムでばりばりきたえたんじゃない自然な筋肉がすごく印象的でした。だからローマの軍人や剣闘士の姿がリアルに見えたというのもあります。囚人たちのローマ人姿を見て、それも思い出しました。

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カツジ猫