映画「戦火の馬」感想(2)。
どうでもいいけど、ちょっとまじめな話をしとくと、この映画の背景になってる第一次大戦のときは、こうしてウマが戦場で使われていて、その状況はとても悲惨だったらしい。きっと映画以上に。
あの「ドリトル先生」シリーズ(映画はまるで別作品。私は原作が大好き)書いたヒュー・ロフティングが、「動物のことばを話せるお医者さん」の話を書こうと決意したのは、戦場で無惨に死んでいくウマたちを見たからだというのは有名な話だし、小説「西部戦線異状なし」では、主人公の学徒兵パウルと同じ小隊にいた、デテリングという農民出身の兵士が、傷ついて死ねずに苦しむウマの悲鳴を聞き、半狂乱になる場面がある。(ちなみに私がその話をしたら、友人の一人は「ドイツが特に残酷だったってわけではないのね?」と念を押したが、それ第一次大戦だから、ヒトラーもナチスもまだ出てきてないし。いいけど彼女、社会の先生だったんだよな。やばくねーか、いろんな意味で。)
「罪と罰」でも「チボー家の人々」でも、感じやすい主人公の青年が道路で死んでいく馬車馬を見て、衝撃を受け気分が悪くなったりする。それほど当時のウマたちの運命は絶望的で悲惨だった。「ドリトル先生」に登場する、幸福なウマたちの老後を読むと、現実を知っているほど作者の思いも含めて、切なくて涙が出る。
「戦火の馬」にも、多分そのもととなった演劇にも、同じ切なさと救いとがある。映画でも演劇でも、主役のウマは苛酷な運命をたどりながら、その都度思わぬ好運で救われる。都合がよすぎる、きれいごとすぎるなどと言ってはいけない。これは、現実はそうではなくて、悲惨な運命をたどって死んでいった、多くの気高い美しいウマたちのことを百も承知で、作者が描く夢なのだ。
それにしても、最初の戦場の場面あたりから、すでに痛切な実感としてせまって来るのは、ウマたちにとって、戦争はまったくどっちが勝とうと負けようと、ほんとにとことん、どーでもいいもんなんだということである。そういうせりふもなく、ただもう、実感として、それがひしひしと伝わってくる。それは、とりもなおさず、戦場にかりだされる多くの人間たちにとってもそうなのだという実感も、ずるずるついでに引っぱり出されてくる。
主役のウマは非の打ちどころなく魅力的だけれど、人間相手でも動物同士でも、決して過度な演技はしないし(させてないし)、しらけるような擬人化もない。ウマがウマとして存在し、行動し、周囲の人間たちと溶け合っている。そのことも、とても快い。
スピルバーグの映画は、ときどき私には「はあ?」とわからない時もあるのだが、基本的には安心して見ていられるし、この映画もそういう点でものすごくありがたい映画である。
しかし、言わなくてもいいようなことを最後に連想してしまうと、人類はウマをこれだけ活用していた時期に、原発なんか作っていたら、危険な作業は絶対にウマにさせていたろうなあ。
そもそも、核実験のとき、爆心地に生きた豚たちをつないで結果を見ていたんだからなあ。アメリカは、とは言わない、人類は。