映画「未来を花束にして」感想(1)。
◇この映画について語ることは、いろんな意味で今の私にはつらい。
だから少しずつ書いていくことにするが、それでも最後まで書けるかわからない。
見て楽しい映画ではない。俳優たちは魅力的で、映像も美しく、前半の暗い画面は中盤からラストのクライマックスにかけて、次第に明るく美しくなり、木々の緑が目にしみる。
作り方も手堅く、観客にこびていない。重い題材を扱いながら、冗長でも複雑でもない。わかりやすくて、素直である。多くの人にこの中身を伝え、理解してもらうには、これしかなかっただろうという、抑制と品位がみなぎっている。
それでも見ていて重苦しく快感がないのは(悪口ではない)、これが、あまりにもやりきれない現実を伝え、それが今なお、ちっとも過去のことになっていないからだ。
◇女性参政権を獲得するために戦った女性たちの話である。そして、ひりひりするような怒りと深くつきささる迷いを感じながら、あらためてまとめてしまうと、それはこういう物語だ。「平和的に穏やかに要求していた、人間として当然の権利が、無視され続け、無視できなくなると攻撃され続け、暴力化し、それでも人を殺すのだけは、つまりテロに走るのはやめていたのに、ついに自分たちの命を賭ける過激な行動に出たら、それがある程度大きく成功した」という話である。
そろそろ無駄話に脱線しはじめると、原爆を描いた作家大田洋子の伝記「草饐(くさずえ)」という名著のある江刺明子が、60年安保闘争の国会デモの中で亡くなった樺美智子のことを書いた伝記がある。悪くはないけどあえて言うなら「草饐」ほどは出来が良くない。その原因のひとつはもしかしたら、著者がその死と、それが生んだ効果について、明確な判断や考察を避けているからかもしれない。
◇当時の私は高校生だった。そして安保闘争や学生たちの行動に強く共感しつつも、樺美智子の死と、それが「聖少女」のように祭り上げられ、その後の運動の大きな原動力になって行くのが、とても不安で不快だった。私はそのとき初めて新聞の投書欄に投書して掲載されたが、うろ覚えのその内容は「人が死んでこれだけ世の中が動くなら、なぜ同じことを主張していた、生きている間に耳を傾けなかったのか」という抗議と疑問だった。
今トランプ大統領がアベ首相が行いつづけている暴挙の数々、それに対する抗議行動と、それを無視しようとする人々などを見ていると、他にも福岡教育大学、宗像市など、身近なさまざまな場所で、それと共通することが始まっているのを見ていると、それこそ中東やその他で、虐げられ声をあげても顧みられなかった人たちがテロに走ったように、道は自然にもうそこに続くしかないような気がして、むしろこれまでそうなっていないことに、私は深い驚きと喜びと希望を感じないではいられない。
ミサオ・レッドウルフさんが始めた原発反対や、シールズに象徴される市民運動は、いずれも決して暴力を容認しなかった。かまやんさんのツイッターがいまだに冒頭に掲げている、シールズの国会突入を自制した強力な意志は、彼らの強さと賢さを永遠に示すものだ。
その一方で集団的自衛権の反対運動の最初に焼身自殺した、名前もまったく報道されず、その意図も目的も闇に葬られたままの男性の存在を、私は今でも忘れられない。彼は何者だったのか。それを完璧に葬った私たちの時代と社会は、正しい発展をしたのか、そうではないのか。
http://blogos.com/article/93655/
◇アベ首相は、まさに盗人猛々しくも、テロ防止を口実に共謀罪を成立させて、あらゆる抗議行動の息の根をとめようとしている。一般市民には関係ない法律と説明しても、デモに参加しているのは一般市民ではないとぬかしている彼らの解釈の何が信用できるだろう。
それでも、テロ防止がそれほど説得力を持つのなら、たいそう危険なことではあるが、私たち自身がまた、テロやそれに類したものに、どう向き合うかどう感じるか徹底的に検証し議論することも忘れてはならない。脊髄反射的に「あらゆるテロは許されないし、その防止のためなら何をしてもいい」と頭を固めてしまうのは、まさにテロを生み出す元凶であるトランプやアベに足を救われる結果にもなる。
多分、シールズや反原発の運動の中、当然のこととして必死に自分たちも含めて、人が傷つくことだけは避けてきた人々は、「未来を花束にして」の映画を見て、共感と同時に強い違和感も覚えるのではないか。特に「命を捧げたら効果があった」ことを手放しで礼賛するかのようなラストには。それは、特攻隊の死を美化することに幼いころから吐き気をともなう嫌悪感を持ち、樺美智子の死によって起こった政府に対する怒りにも同じものを感じて絶望した高校生の私の気分と、多分似ていないこともあるまい。
そして、しかし、何よりも重くてつらい現実は、実際にそれが効果があったこと、少なくとも女性参政権の運動の欠かせない一ページとして刻まれていることである。
それは9.11.が結果として世界の目を中東問題に向けたこととも同様に、ひっぱたかれて刺されないと他人の痛みを感じられない人々が圧倒的に多いのかもしれないという、腹立たしすぎる事実と向き合うことでもある。
もちろん、ひっぱたかれて刺されたら、なおのこと逆上して、自分のそれまで何も感じなかったみっともなさをそれこそ命がけの勢いで弁解し、相手を攻撃しはじめる人もまた多い現実とも、向き合うことである。そういうやつは皆いっそ死んでしまえと心の中で思いたくなる私自身の弱さや凶暴さと向き合うことでもある。(まだ続きます、いつになるかは知らないけど。笑)