映画「赤ずきん」感想。
多分いっぱいネタばれです(笑)。
主役の女優さん、「マンマ・ミーア!」の人だよね? どんぐりまなこと言いたいぐらいでかい目のせいか、したたかでちょっと下品に見える。この映画のヒロインは妙にタフな感じがどっかにあって、幼年期にウサギ殺しそうなキャラだから、何しでかすか本性の知れない様子が似合ってました。でも、これは計算してかな、偶然かな?
そのことに限らず、この映画、変にどっかこう、すべてがちぐはぐなんだよなー。悪役の怪獣のオオカミがでかいだけで妙にぶかっこうで凄みに欠けるのも、ひょっとして、わざとそうしているのかなーと思うし。悪霊退治で村にのりこむ神父たちご一行も、ものものしいわりにどことなく間抜けだし。神父のゲイリー・オールドマンは無駄にカッコよく、長い紫の衣装をはためかせて走り回ってるし。赤ずきんのマントもそうなんだけど、きれいなんだよねー、衣装や家や村の風景が。だからリアルじゃないとか思わないで、目を楽しませた方が勝ちなんだろなーと思って見てると、別に必ずしもそういう風でもないし(笑)。
ヒロインの彼氏がホアキン・フェニックスをちょっと繊細にしたようないい男で、でもこいつはひょっとしたらオオカミじゃないかと思わせないといけない役割なので、ときどき怪しげだし、二人の仲を裂く村の有力者の息子は、絶対にやな奴で間抜けで残酷でないといけない位置なのに、外見行動発言すべて、徹底的に優しい賢いいい奴で、あまり良すぎて怪しいから、どこかで正体をあらわすかというか、あらわさないとしょうがないだろ、他にすることないじゃん、こんな役と思っていたら、いつまでもずっと立派なままだし、うーん、これは常套的な展開をさけた斬新な試みかなーと感心していると、それほどのことでもないような気がしてくるし。
神父たちが拷問のために持ちこむ、鋼鉄の象も「ローマで使われていた」とかいうけど、それは鋼鉄の牛だろう、第一、象だったら村人は見たことないから何だかわからないんじゃないの、まー、わからなくても拷問には困らないけど、と思うそばから、つまり私みたいな観客のために、牛だとすぐわかるから、何に使うかわからないためにわざと象にしてるのかなと気を回したり、でもやっぱ、あれは何にも考えてないんだろうな。
この映画は、村を理想郷として描いてはおらず、むしろ村というものならではの無気味さをいろいろ見せてくれていて、それがオオカミの出現する原因と結びついてるあたりは、案外よく考えてあるんだよなー。だから、村人たちもまた、父母の代からいろいろと秘密や醜聞をかかえていて、閉鎖的で他を疎外する、いやな面も持っている。
しかし、そこに外部から訪れる神父たちもまた、決して開放的でも明るくもなく、信念や信仰に縛られた冷酷さで武装している。
そういう点では、ものすごく重い課題を描いているたいそう立派な作品のようだが、それでいて全体が妙にバランス悪くて安っぽい。
いかん、だんだん書いてると、はまりそうだ、この映画(笑)。
村人がオオカミからヒロインをかばう、すごく盛り上がるはずの場面でも、「え、でもそこ、教会の敷地内だから、別にかばわなくったって、オオカミ入って来れないじゃん」と、つまらぬ突っ込みをしてしまいたくなる、変なもたもたっぽさがある。だいたい、オオカミがあんまり恐くないしさ。
だけど、よく覚えてないんだけど、一番最初、ずっと上から町を撮り、森や湖を撮って最後に村に落ちつく、あのカメラワークも、最後まで見てから思い出すと、「あー、都会まではあれほど遠く離れてる、っていうメッセージで伏線だったのか、あれは。それが『村を出たい、村を出よう』という、くりかえされる主人公たちの願望とつながるのか」と感心したりして、そしてすぐ、でもそこまで考えてないかもしれないな、この映画、と思い直したりする(笑)。
つまり、何かこう洗練されてないし、整理されてないし、ごちゃごちゃしてるし、アレなのだが、ひょっとしたら、ものすごくいい内容の、ものすごく深い面白い映画(になるはず)だったかもしれないとイライラするけど、それもふくめて楽しめる映画ではあります。ていうか、そういう風に楽しむしかない映画かもしれない。
もー、ものすごく、ついでのついでのまたついでに言っちゃいますと、キャラママさんと以前この「村を出て行く」ということについて考えたことがあって、私はそれを、リンクしているdaifukuさんのラッセル・クロウ・ファンサイトに収録してもらってるファンフィクション?で、テーマにして書いたことがあったっけ。「象が眠る村」ってやつ。あ、偶然、象が出て来るんでやがんの(笑)。
これね。↓