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曽野綾子のコラム(5)。

◇(10)ぐらいまで行きそうで恐いが(笑)。
介護における事務手続きのややこしさについては、まだつけ加えたいこともあるが、一応排泄関係の話に切り替えることにする。

◇私の母は弱って入院して施設に入るまで、自宅で一人暮らししていたから、私は母の排泄や入浴の世話をしたことはない。だが、施設に入った初めのころ、ヘルパーさんが来ないとき母は私に「あなた、おむつ変えられない?」などと平気で言っていて、私も何度か交換したことはある。つまり母は、そういうことにまるでこだわらない人だった。だがこういう人はむしろ珍しいのかもしれない。田舎の家で暮らしていた祖母は晩年弱って、トイレに行き損ねてあたりを汚し、たまたま居合わせた私が掃除をして下着を変えたら、気丈な人だったがたいそうショックを受けたようで、しばらく黙って寝てしまった。その落ちこみ方は私の方が少し意外だったほどだ。

そんなわずかな経験で言うのも乱暴だが、曽野さんの書く「孫が祖母を介護する」ケースを私がとっさに想像できないのもそれを思い出すからかもしれない。私の回りの知人でも、孫をむしょうにかわいいと目を細くして告白する人は多くて、そういう人たちのことを考えると、むしろ孫には一番自分の弱さや醜さは見せたくなくて、いつまでもきれいで優しくお小遣いをくれるような、カッコいいおばあちゃんやおじいちゃんでいたいと思うものではないかという印象が強い。

そういう望みや感覚がわがままなのか正しくないのか、そういうこととはまた別だが、そういう高齢者の理想としては嫁でも息子でも他人のヘルパーでも、誰かが自分ができなくなった掃除や食事や洗濯や入浴や排泄の世話を完璧にしてくれて、花でも飾っていいにおいのするオイルでも焚いて、部屋やベッドをきれいにして、自分自身もさっぱりした寝間着やガウンや髪型で、にこやかに音楽でも聞いて画集でもめくっているところに、孫がやって来て「おばあちゃん、これ食べるか?」と言ってお菓子でもさし出してくれる、という状態が一番うれしいのではないだろうか。いや、冗談ではなく、本当に。

◇介護に優しさは基本で、それさえあれば何とかなる、という曽野さんの主張はたしかに、どこか正しいと思う。私は彼女の「海抜0メートル」という小説が好きなのだが、その中でたしか寝たきりの老人が、手鏡で窓から見える富士山をながめるのを楽しみにしていると、(あ、そう言えば、あの老人を介護していたのは高校生の孫娘ではなかったかしらん、まあとにかく)そこにお見舞いに行った教師とその知人かがいて、その青年がたたみに寝転んで老人といっしょに手鏡をのぞき、「富士山なんて、人といっしょに見るもんです」と言って老人といっしょに楽しんで老人は喜んで涙するといった場面があった。そういう寄り添い、共有することを思いつける心というのは、介護にでも何にでも欠かせないものだと言うことを曽野さんが言いたいのなら、それは決してまちがいではない。

ただ、うまく言えないけど、(1)そういう優しさ、寄り添う心、淋しさをまぎらわす暖かさ、生きる力を生む存在、みたいなものと、(2)いろんなことができなくなった障害者や高齢者に、それができていた時と同じような状態に保ってきちんとした生活を保障してやる存在、ということは、(1)(2)を一人でやれれば何よりだが、それが無理なら分担しなくてはならない場合もあって、そこが曽野さんの中でどうなっているのかが、いまひとつわからない。
そして、それは彼女だけではなく、それこそ介護のプロみたいな人たちの中でも、よくわかられてないのではないかと、母を介護する中でずっと感じて来た。

◇うん、やっぱり具体的な話をした方がいいか。
事務的、法律的な問題でひとつ、すごく腹立たしくて救いがないのが、介護やケアや訪問看護や、そういうことの規則や規約が、地方や機関によって、けっこういろいろちがうことで、だからものすごく介護される側の運不運があったりもする。
私は国や社会の体制で、これは一番あってはならないことと思っていて、昔、大学でちょっと上に立つ立場にいた時に、50人ほどの教員を管理世話する事務室の事務員の方に、しつこく言っていたのが「50人全員にしてあげられるサービスでなかったら、絶対に誰にもしたらだめ。文句を言う人がもしいたら、私に言って下さい、私から説明する」ということだった。その人は優しい人だったので、私にそう言われても陰でしてあげていたのかもしれないけれど、私が恐れていたのは、それだと結局、一部の親しい人だけへの特別サービスが定着してしまいかねないということで、50人からいっぺんに要求されても対応できることでなければ、一人二人にするべきではないと考えていた。

何か、こういうのって曽野綾子っぽいかもしれないし、佐藤優氏がロシア時代に、秘書とかそういう女性たちに親切にしていて情報をもらったという体験を、極意のように披瀝しているのを見たときは、いろんな意味で、うっはあと思ったものだが(笑)、しかしとにかく、うまいやり方やコネや好意で待遇がちがう仕組みと言うのは、すごくいらんエネルギーを使って犠牲者も生むというのが、私の感覚である。

つまり、介護については、地域や担当者の解釈で、ものすごく差が生まれている。(4)で私が書いた、誰かがぎゃーぎゃー文句言ったらそこだけ囲い込んで対応して、決してその抗議や教訓は全体のものにならないんだろという実感もそこから生まれる。だから、おとなしい人は泣き寝入りし、しつこい人は、あわよくばと食い下がって要求をかちとるが、それでも疲れるのにはちがいがない。

◇いかん、具体的になってないな。
つまり、訪問介護してくれる事業所やヘルパーさんの中で、「家人が家にいたら、サービスはできません」という規則があったりなかったりする。これもまあ細かいことを言うときりがないが、要するに、家の人が子どもでも老人でも介護を受ける人以外に家の中にいたら、即刻仕事を放棄して帰らなければならないということらしい。現に母のところに来ていたヘルパーさんは、そうだった。
こういうのは個人差もあるし、中には規則をたてにとってか、かさにきてか、自分を偉そうに見せたがる人もいないわけではない。そういう人は、どんな職場にもいるし、そういう人は、何をしていてもそうだろう。市長でも大臣でも学長でも警視総監でも、何になっても同じようにふるまうだろう。だから、それには驚かないが、たとえ、そういう人でなくても、とにかくそういう規則がある以上、何かと気をつかってい

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