曽野綾子のコラム(7)
◇それでなくても長くなりすぎてるんで、今日はもう、速攻で行きます。
そもそも私は、移民と難民、亡命者、その他の似たようなケースの区別もはっきりついてない不勉強な人間なので移民の問題について語るほど、いろんなことをよく知りません。
だから、その周辺と言うか、根底と言うか、こういう問題にかかわる時の、自分の気分についてだけ書きます。
あ、(つづく)がついてる間は、補充訂正するので、すみません。
◇私は小さい時から、家族にはかわいがられ学校でも皆と仲よくしていたのに、そして非常に幸福だったのに、それでもいつも異分子で少数派で孤独でした。
多分、本を読んでさまざまな空想にふけっていて、しかもそれをどんな親友にも大好きだった母にも絶対に話せなかったからでしょうね。別に卑猥な内容なんかじゃなかったのに、ただ、こういうことを夢見ている、こういうことを望んでいると口にするのが、もう死んだ方がましなぐらい恥ずかしかった。
今いる場所は快適で、周囲の皆は好きだけれど、それでも最高に幸福になれる場所はここではない、どこか遠くにあり、本当に愛せる人たちは、ここではない、どこか遠くにいると、いつも実感していました。
どんなに好きな家族でも、友人でも、誤解や対立はあるし、わかってもらえないことはあります。そういう時は、その気分に拍車がかかって、どこかにもっと自分を理解してもらえる世界はきっとあると思っていました。
◇私の家族は長崎からの移住者で、地元とは異なる文化が塀をめぐらした庭の中にはありました。それでもそこに住んでから何十年も経ってましたが、田舎ではそれでも立派なよそ者です。
また、当時はまだ田舎は戦後と言っても戦前や戦時中の文化が充分に残っていて、共産主義は恐れられ、民主主義でさえ危険思想でした(笑)。私は本や週刊誌(当時はばりばり進歩的=左翼的)や新聞(当時は以下同文)を読んでいましたから、そういう点でも周囲の地域をおおう空気には違和感がありました。
でも、母はそういう点では急進的な人だったし、マスコミの論調もそういう点では私とそんなに変わらなかったからそういう部分では、それほど孤独を感じてはいなかったと思います。
結局私が、「どこか遠い世界に行けば、私と同じ人たちがいる」と、痛切に感じるしかなかった決定的な要素は二つだったと思います。
一つは女性としての私の生き方や愛し方の好み。
もう一つは、私が孤独でいるのが好きだったこと。
どちらも、今の時代だったら笑っちゃうほど普通に認められていることです。私は小さい子どものころから強い女になりたくて、弱い男を愛したかった。自分が同性愛者かどうか私はわかりませんが、むしろ、そういう強い女として弱い男を愛する代わりに、それに近いかたちをとれるなら、つまり弱い相手がどうしても女でしかあり得ないなら別にそれでもかまわない、ということかもしれないと思います。どっちにしても、今なら全然異分子でも少数派でもないでしょうが、当時は狂気の沙汰でした。
そして、もしかしたら、それ以上に、孤独を好むことは罪でした。「人は一人では生きられない」ということばが、私は今でもむしずが走るほどキライですが、それは、そのことばとセットにして、孤独を好むのは悪で罪で病気で異常だということが、もう社会全体にしみついていつも頭の上をおおう雲のように、はりついていたからです。それは古くさい軍国主義でも、もちろんそうですが、救えないのは新しい時代の進歩的民主主義的な思想でも、「皆で力を合わせましょう」のスローガンのもと、否応なしに強制されることで、まあでも今でもそうでしょうが、友だちが少ないのは悪で病気で問題行動でした。
私は今でもそうですが、人といるのも好きですし、つき合いも共同生活も、決して嫌いじゃないのです。たまたま結婚しなかったけれど、したらそれなりに楽しんだと思います。ただし、それと同じくらい、一人でいるのがものすごく好きなのです。一人でいて退屈した記憶など生まれてこのかた一度もないし、至福のときというのはすべて一人でいるときです。最高に愛した相手といる時でも、その幸福と喜びに疲れるので、一人になるとほっとします。
一度だけ、人を愛したときに、夢中になりすぎて、一人でいても、その相手のことを考えて、自由にも安らかにもなれなかったことがありました。それは私の人生で一番最悪の恐ろしい瞬間だったと今でも思います。地獄のような空白を味わいました。一人でいて孤独になったことなんか、その時まで私にはなかったのですから。空想や想定問答でいつも一人でいるときが、一番私の周囲はにぎやかだったのですから。
自分が自殺するかもしれない、と思ったのは、後にも先にも、あの時期の、あのいくつかの瞬間だけでした。
私が大学生のころ、「一人でいるのは悪いことではない」という見解が初めて登場し始めました。それまでは日本の本や報道で、そんなことばを目にしたことは私はありません。海外の本にそれがはっきり書いてあったというわけではないけれど、何となく、外国の本は小説でもそれ以外の本でも孤独でいることを許し、認めている感じがどこかに前提としてありました。日本の文学には、どんなに進歩的な過激な作品でも絶対にそれはなかった。私が三島由紀夫の小説を愛したのは、彼の作品にはどこかにそれがあったからだと思います。
◇何だかんだで、また話がそれて行ってますが、まあこれは想定内なので、もう少しおつきあいを。
とにかく、「女としての生き方と愛し方」「孤独への好み」の二点で、私は家族にも学校にもマスコミにも、日本のすべてに溶けこめませんでした。
自分を決定的に異分子と感じ、漠然と、それが許されていると感じた外国(主として欧米。それ以外のアジア、アフリカ、中東については知りませんでしたから)に共感や親近感を抱いていました。
たとえ言葉や習慣がちがっても、そんなこと問題ではなかった。この根本的な違和感を認めて受け入れてもらえるなら、その方が私には、よっぽどありがたかった。
そういう意味で、日本人としての一体感とか共感とかいうものに、私は昔から一度も実感や理解を感じたことがありません。そんなものを強調され共感を求められると、深海魚か隠花植物からべたっとすりよられたような驚きと嫌悪感しか、昔も今も感じません。
◇ただ実際には、そういうことを感じていたと同じくらいの時期に、一方で私は、外国でもどこでも、実際にそういう世界に行ったなら、そこでも私はやはり、今この日本に生まれて生きてきたというだけで
、異分子なのだろうとも感じて理解していました。
それは、私がいろいろな違和感を周囲の田舎の友だちや大人に感じて、本で読む都会の生活の方に空想の中ではなじんでいながら、実際に都会で暮らす叔母の家に行って、そこで従姉たちと遊べば、自分は本で知っていたことのすべてを実際には知らない、田舎者であると痛感させられる体験から理解したことだったと思います。
実際には従姉たちは私を差別なんか全然しなかったし、そんなにカルチャーショックがあったわけでもなかったのですが、病的なほどきれい好きで世話焼きの叔母が、私をものすごくかまってあれこれ指図しつづけたのが一番大きな理由でしょう。夢見た世界に現実に行けば、私はただの他国から来た愚か者、獣同然の野蛮人として扱われるだけなのだと、私は多分、必要以上に、そこで確信したのです。
横光利一の「旅愁」とか遠藤周作の「留学」とかに描かれた、欧米での日本人としての体験と通ずるものがあるのかもしれません。江戸時代の海外に行った日本人や、同時代やそれ以後の日本文学で、もっとのびやかに異国とふれあって何の劣等感も感じていない例も多いから、私と叔母の場合のように、それぞれの事情も反映するのでしょう。もちろん今では、そんな屈折を抱く人など皆無に近いのだと思います。
ただ、昔よく言われたのが、海外にあこがれて実際に行って、コンプレックスを感じた人は、ものすごく外国かぶれになるか逆に愛国者になるかどっちかだということでした。私自身は、実際に外国に行ったわけではなく、ただ叔母と都会を通じて、その感触を理解し、私は異国にあこがれるゆえに、今の場所では異分子で、今の場所で育ったゆえに、あこがれる異国に行っても異分子だと、漠然とですが、ずっと確信していました。
それは、ある意味、静かな絶望とあきらめでした。そして私は外国かぶれにも愛国者にもならなかったかわり、いつからか別の幻想を抱くようになっていました。
それは、「スパイ幻想」もしくは「ガイド幻想」とでもいうべきものでした。
◇どこが「速攻」かと思われるのは無理がないほど、遠回りな話になっていますが、いつものことです(笑)。
結局私は、自分は異国人か異星人か、とにかく周囲の文化にも常識にもまったくなじめないし同化できない人間ではあるけれど、さりとて私と同じような文化や常識の世界に行っても、生まれながらにそこで生きている人たちとはやっぱり同化できないだろうと思いました。
超ややこしい言い方をすると、「自分の生まれ育った世界の文化や常識に何の疑いも持たず、素直に溶けこんでなじんで生きている」という点では、その世界の人たちも、私が今いる世界の人たちとまったく同じわけですから、私とはそこでもう、根本的にちがうわけです。ああ、ややこし。
今でも私はときどきやけ半分で思いますが、別に嫌韓嫌中に限らず、世界各国、自分の国が最高と思って他国を憎む人たちは、どこの国でも根本的に皆似ていて同類で、彼らがそれぞれの国が最高という固定観念のもと、たがいにいがみあってくれているおかげで、私のような存在は彼らに滅ぼされずにすんでるのかもね。
いや実際には、彼らがそうやって対立し、争い合うことに巻き込まれて私のような存在は、常に滅ぼされる危険にあるわけなのですが。
似たものどうしが争うとばっちりで、似てないものが消される構図は、まったく救いようがありません。
だから私は、もしかしたら小学生のころからかもしれないのですが、漠然と、こんな自分にできることは、自分の本性をかくして周囲にとけこみ、情報収集と分析をして、攻撃するにしろ融和するにしろ、そのために役に立つ資料を作っておくことだ、と思っていました。
それは自分を殺して回りに合わせるとかいうのではなく、もっと遠大な目的のために、敵を知り、敵地を知るために行う、前向きな挑戦で冒険でした。
自分の使命と、どこかにある見たこともない自分の祖国への忠誠を、私は少しも忘れたことはなかった(笑)。だから卑屈にもならなかったし、みじめとも思わなかった。家でも学校でも、皆の望みに合わせて生き、へらへら誰もを喜ばせようとしていたけれど、内心は崇高な使命に燃えて、いつも毅然としていました。おー、まるで小公女幻想やんけ(笑)。
そしてまた、いつからか、それに重なるようにして、いつも心がけはじめていたのが、「いつか、海のかなたから私と同じ考えの、私と同じ国の人がやって来る。そして、私と同じように、この国に違和感を感じ、とまどって苦しんで滅ぼされる。そうならないように、その人に、この国での生きのび方を教えよう。この国の人と、その人がたがいに誤解しないように、たがいの考えをたがいにきちんと説明できる人間に、私がなろう」ということでした。
なぜか、海のかなたからやって来る人に、私自身が救われるとか救い出されるとかは、まるで思わなかった。私の想像の中で訪れてくる私の同類は、いつも弱くて、守ってやらなければならない存在でした。かくまうとか、逃がすとか、暮らし方を教えてやるとか。
もし、それが強くて、この国を滅ぼすような存在なら、この国の一員として、それも防がなければならないと思っていました。ただ、そんなことはほとんどあり得なくて、それよりも、海のかなたから来る私の同類は、本当に困って弱って苦しんでいる存在としか、私は想像できなかった。とりあえずは、さしあたりは。
彼らを救うためには、この国で私が強くなり、偉大になっていなければならないと思った。この国のことを誰よりもよく知って、皆に信頼されていなければならないと思った。そうでなければ、海のかなたからやって来る私の同類を守ることができないと思った。だから私は自分を磨き、強くなろうとして来ました。多分、中学生のころにはその意識は私の中で格立していたと思う。ここにいない人たちを守るために、ここにいる人たちの中で私はがんばらなければならない、という意識は。
こう書くとえらそうだし、出来過ぎていると思われるかもしれません。でも実際には、そういう風に考えて行動し生きる以外に、私には、自分も、周囲の他人も、憎まないで生きていられる方法がなかったのです。
こんな考え方を生んだ、何か特定の小説も映画も人の話も思い出せません。いろんなことが積み重なる中で、ひとりでに自然に私の中に築かれた、物語の図式だったと思います。