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曽野綾子のコラム(8)。

◇私はグローバル化ということばが好きでない。実際こうして手書きでもパソコンでも、この語句を書いたのは生まれて初めてじゃなかろかと思うほど、このことばを、あまり意味もよくわからないままに敬遠して来た。理由は単純でこのことばを使ってなされることには、これまで私が知る限りではまったくろくなものがなく、私が多少なりとも尊敬したり好きだったりする人が、このことばを使うのをこれまで聞いたことがないからだ。ちゃんとまっとうに仕事をして生きている人が使うことばではないとさえ感じていて、まあ少し前には活性化ということばにも似たようなうさんくささを感じていた。

それが何となく、曽野綾子氏のあのコラムについていろいろ考えたり書いたりしている内に、ああ、もしかしたら私の中でもこのグローバル化とやらが必要になってきているのかもしれないと、初めて少しだけ感じた。
例によって、おまえはどこから話を始めるのかと思われているだろうが、さらに、わけのわからないところから書き出すことにする。

前に書いた(7)の中で、私はけっこう幼いときから周囲に違和感を感じて孤独で(でも、それは、そうものすごく不幸でもなく、むしろそれがあたりまえのことで、ものを書くにしろしゃべるにしろ、実際に感じたり考えたりしていることの一番肝心な部分の大半は、誰にも見せずにしまってとっておいて、ひょっとしたら墓場にまで持って行く、というのが私に限らず昔はわりと普通だったのじゃあるまいか)、本国はいつも、ここではない、どこか遠くにあって、しかしそこに行ってもまた生粋のそこの人ではないだろうから、結局、今生きている異国のここで、幸福になり立派になっておいて、いつか本国から人が来たとき、ここと、そことの通訳をしようみたいな意識でずっと生きて来たと書いた。

それは私の内心の図式として、かなり固定し定着しているのだが、もうひとつ、同じくらいにずっと私の中にあって生き方や行動の基準となっているのは、このブログの書棚の「ラフな格差論」というところに詳しく書いているが、要するに、壁の向こうか塀の向こうか、とにかく自分の見えないところに存在する、とても不幸な人たちを放置しておくことへの恐怖である。

◇何でもアメリカでは格差が拡大したあまり、富裕層だけがぜいたくな街を作って、それこそ塀か何かで囲んでがっちりセキュリティーもやって、貧しい層を閉め出して立ち入らせないようにして、自分たちのお金は自分たちのためだけに使おうとしているSF映画も顔負けの事態が現実化してるらしい。そういうハリウッド映画もこのごろ多く作られているけど、どれもこれも、あんまり面白くないのは何でなんだろうなあ。まあそれはいいとして、この話のこういう街について、もう言い出したらきりがないぐらい言いたいことはあるので、またまた限りなく脱線しそうだから適当にすませるが、うらやましいとか腹が立つとかより私はその話を聞いたときは、何かもう自然に吹きだした。ばかだなあとしか言いようがないと、とっさに思った。

曽野綾子がらみで言うと、彼女が今、代表か何かやってる日本船舶振興会の前の代表か会長かの笹川良一氏がモーターボートの収益でもうけた金で慈善事業をはじめたとき、私は何やら暗澹とした気分になって、貧しい人からギャンブルで取り上げた金で、貧しい人を救うということの救いのなさをつくづく感じたものだった。しかし、その後小林信彦の「オヨヨ大統領」シリーズを読んでて気づいたのは、どんなにあくどく、えげつなく、強引なやり方で金をもうけて贅沢をしてほしいものを皆手に入れても、そういう人が最後に求めるのは何かというと、若さとか不死とか美とか学歴とか系図とか、そういう金で手に入れるのは無理なものばかりで、その一つが、聖人と呼ばれたり善人と慕われたりすることだということだった。クリストファー・ウォーケンの「ギャング・オブ・ニューヨーク」もたしか同じテーマだったと思う。

そのように人に思われて、感謝状をもらったり銅像を建てられたりするのが、大富豪の最終的な望みということならそれはそれでもしかたがないし、というか、アメリカでも日本でも、そういう金持ちがまだ少ないのかもしれないとも思うが、それもさておき、かりにそうやって、人に評価されなくても、誰に知られることがなくても、人間にとって最高のぜいたくとは、何かを助け喜ばせ、何かを幸福にすることに尽きるのじゃないかとマジで私は思う。
それが、うまくやれる人というのは案外少なくて、特に思春期の子どもとかには何をしてやってもウザがられることが多かったりするから、本当に人に喜んでもらえるのは能力で才能で、言いかえれば何かしてもらって喜べるというのも才能だと思う。私は若いとき、家族や親戚や友人から何かをしてもらっても、ちっともうれしそうにしない子どもで、回りに気の毒なことをしたなあと、つくづく後悔しているぐらいだ。

で、高い塀で周囲を囲んで、自分たちだけで贅沢をする人たちというのは、「ひゃあ気の毒に。人生最高の楽しみを知らんで死ぬのか」と私はまず思ってしまう。もっとも、アメリカの貧困層があまりに膨大で悲惨だから、もう救うのは無理という気持ちになるのかもしれないが、それはそれで不幸だなあ。そこであきらめて、塀で囲ってしまうぐらいだから、あんまり大した金額の財産じゃないんだろうなと、とっさに思う。巨万の富を持ちながら、その富でできないことを思い知らされながら贅沢するのって、めちゃくちゃわびしくないか。

◇それと、「よく恐くないな」と思うのだ。塀の向こうに貧しい世界があり悲惨が広がっていて、それに目をつぶって楽しく生きるというのは、私にはすぐに思い浮かべる話は二つで、一つはポオの「赤死病の仮面」で、もちろん架空のお話だが、中世ヨーロッパで疫病が流行ってるとき、金持ちが豪勢かつ広大な館の中に閉じこもって疫病を閉め出して贅沢にふけってる話で、これがもう、恐いったらない。もう一つはお釈迦様が、あの人はもともと王子なわけだが王宮の外のことは知らないで、幸福に暮らしていて、ある日、門の外に出たら、さまざまな悲惨を目にしてショックを受け、そのまま出家してしまうわけで、どっちにしても、そういう塀の中の理想郷の幸福は長くは続かんのだというのは普通に考えても常識じゃないかえ。

あのバブル崩壊のリーマンショックだって、私は経済のことなんかちっともわからないけど、その私の解釈でははじまりはサブプライムローンとかの、こげつきで、それは貧しい人たちに貸した住宅ローンを彼らが払えなかっ
たからで、結局貧しい人たちの貧しさが、好景気をぶちこわす引き金になったんなら、それは結局、そういう貧困層の破壊力だったとも言えるわけで、そういう存在を大事にしなかったつけが回った、というのは乱暴な解釈すぎるんだろうか。

◇だから私は、不幸で貧しい人たちが恐い。フランス革命の民衆のように、その人たちが暴徒化するのが恐いということもあるが、そういう抵抗をしないで静かに苦しんで滅びて死んで行くにしても、やっぱり恐い。その方が恐いかもしれない。

それとはまた少しちがうが、私は原発や基地のある場所に住む人たちがいて、自分が安全かもしれない場所にいるのがすごく不安で、やりきれない。私が死刑制度に反対なのは、自分が死刑執行の仕事をするのがいやだからでそれを私の代わりに誰かにさせるのはもっといやだからだ。基地でも原発でも、賛成するなら自分がそこのそばに住むのでないと、誰かがそこにいて、被害を受けて苦しむかもしれないと毎日毎晩思っているのがいやだし、そういうことを思わないで暮らしていけるようになるのは、もっといやだ。
自分の中の、ある感覚、ある大切な部分が、鈍化し腐食し、死んで行くような気がする。

◇だからこそ、原発にも基地にも反対して来た。そういうデモや集会にも時間があれば行っていた。
しかし、ここがグローバル化だが、私は自分のこの感覚にもとづく行動を、世界規模ではあまりまだ具体的に考えてなかった。もちろん、ベトナム戦争ではアメリカに抗議しつづけたし、イラクやアフガニスタンの戦争にも関心は持ったし発言もして来た。
しかし、そこで生み出される多くの難民については、存在も状況も知ってはいたが、自分に何ができるかを切実に考えたことはなかった。

曽野さんのコラムの書き出しで、「文化のちがいはなかなか乗り越えられない。が、そう言ってもいられない。高齢化する日本社会では労働力不足だから、移民も受け入れなければならない」という感じで展開して行く話に私はものすごくとまどって、「え?え?え?」と思ってしまったのだが、そもそも私は移民や難民の受け入れについて、そういう、こちら側の都合で考えたことがなかったし、今もできない。
次回にゆっくり書くが(まだ続くのよ)、そうやって日本に来ることがその人たちの望みか、他に選択肢がないとしても日本がどうすることが、その人たちにとって最高にいいことなのか、あくまでも、その基準でまず考えることしかできない。きれいごとじゃなくて、その方がきっと、ややこしくならない。

昨日かおとといの東京大空襲の式典で安倍首相は「平和のために努力する」とあいさつしたと新聞の見出しにはあったが、本当かいなと思って記事を読んだら、「世界平和のために努力する」と、ちゃんと「世界」がくっついていたから、これは「積極的平和主義」と同じことで、世界の紛争地域にアメリカとともに出向いて戦闘行為をするということなのだろう。
けっ、としか言わないでおくが、ただ、こうした方向であれ、曽野さんのコラムの姿勢であれ、話が全世界規模になりつつあるからには、私の方も、「塀の向こうの不幸な世界」をどうするか、「今さしあたり幸福な自分の世界」をどうするか、と具体的に考える時の範囲を、国内から全世界にもっと広げてしまうことがこれからはきっと、必要になるだろう。

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カツジ猫