死んだ気で
飼い猫が死んで一部の知人や友人からペットロスを心配されている時に、こんなタイトルをつけると、またぎょっとされそうだが(笑)、そういうこととは関係ない。
まあせっかくだから、少しだけ飼い猫カツジのことも書いておくと、これも何度か書いたことだが、かれこれ二十五年も前に、歴代の猫の中でも最高に好きだったキャラメルが八歳の若さで死んだとき、私は相当落ちこんだ。あんまり淋しかったので、それからしばらく、外出してもジムに行っても、キャラメルがいつもそばにいて、いっしょに行動しているような気がした。道を歩いていても少し前を歩くキャラメルが見えるようで、プールで泳いでいると、行く手のふちに彼が座ってこちらを見ているようで、思わずいつもほほえみかけたり、小声で何かささやいたりしていた。それで何とか慰められ、それでけっこう楽しかった。
ちなみにこれがキャラメルです。

カツジはキャラメルの倍もいっしょに暮らしたし、いつも抱きしめて「大好きよ、カツジ」と言うときに、キャラメルや他のレジェンド猫たちに遠慮して「生きてる猫のなかでは」とか「長毛種の猫では」とか、あらゆる条件をつけまくっていた私だが、死ぬ際の変なクールさと落ち着きぶりには正直かなり驚いて見直したし、本当にさっきテレビで美輪明宏が、「比べるというのは無意味です。枝豆とバラを比べられますか」と言ってたのと同じで(そう言えば私も昔コンパの帰りに酔っ払った男子学生二人に「先生は僕たち二人のどっちが」みたいな質問をされて「そんなのは不可能だ。猫とヤシの木を比べられるものか」と答えたら、「どっちが猫で、どっちがヤシの木ですか」と聞かれたな)、カツジとキャラメルは甲乙つけがたく別腹でなつかしい。
だが、とても不思議なことに、どんなに淋しくてもカツジといっしょに買い物に行ったり散歩をしたりという空想は生まれない。そうではなくて、どんな時も彼は満足して家で待っていると、もう心から実感する。ひょっとしたら私がいなくても、この家にいて、庭のお墓の下で実に幸福でいるような気がする。そして、それが私にも楽しくて、心が休まり、帰るたびにひとりでに笑顔になる。
カツジはきっと家と土地の守り神になると言ってくれた人もいた。やつもその気でいるのかもしれない。でもカツジ、気をつけろよ、守り神と地縛霊って紙一重だぞ(笑)。
まあでも大丈夫かな。頭がいいと同様に、ヘタレでビビりのカツジには、どこかいつも、とても善意のところがあった。あきらめもよく、執着心がなかった。地縛霊にはきっととことん向いてない。

ともかく、今日は死ぬ気で朝から、先住猫たちの墓の周辺に、ハイビスカスや花胡椒など植えて、何とかちょっと見よくした。そしてカツジの墓の周辺に植える花もいくつか買って来た。
昨日見つからないと騒いでいた手紙は朝、速攻で見つかったのだが、それで安心して返事はまた書きそこねた。明日は書かねば。その代わり、パソコン机の前の床をかなり片づけ、机の上もまあ何とか普通に散らかってる状態にまでは戻した。さて明日はもうちょっと片づくかな。
夕方には久しぶりに友人から電話があって、こちらからもかけたいと思っていたところだったから、超うれしかった。彼女もブログでカツジの死んだのを知って残念がってくれた。何だかカツジがいろいろと、人を呼び寄せてくれているような気がする。それともキャラメルやレジェンド猫たちが、そのくらいしとけと、言ってくれているのかな(笑)。どっちにしてもありがたいが。